オトナの教養 週末の一冊

2018年8月17日

»著者プロフィール
著者
閉じる

本多カツヒロ (ほんだ・かつひろ)

ライター

1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。ブログ:http://golazo-sala.cocolog-nifty.com/pinga/

――何重もの意味で、「反知性主義化」が進んでいく世の中は、今後どうなっていくと考えていますか?

與那覇:エリートや専門家への不信は、これからも続くでしょう。しかし、いくらエリート支配が不快でも、「じゃあ自分で全部やれよ」と言われると、多くの人は困ってしまう。その場合、「誰によって統治されたいか」の基準が大きく変わり、結果的に前近代への逆行が起きないかと心配しています。

 近代社会を運営する学歴エリートは、勉強の成果という「後天的」に習得された特性によって、自分たちを権威づけてきました。それが気に入らないという反面、出自・家柄といった「先天的」な権威については、セレブだといって以前よりも持ち上げる風潮が、平成の半ばからあるように感じます。たとえばタレントどうしで結婚するより、歌舞伎役者の奥さんになる方が「格上だ」と匂わせる報道が、ずいぶんありますよね。

 くわえて日本では歴史が壊死していっているので、人々が優生学の復権に怖さを感じない。「能力は遺伝で決まる!」といった趣旨の記事をよく見かけますし、美男美女の芸能人カップルが結婚すると「子どもの遺伝子が凄そう」といったコメントが普通にあがる。どうして、本人の幸せより遺伝子が気になるのでしょうか。

――スポーツ選手どうしの結婚でも、どんな優秀な運動能力の遺伝子を持った子どもが生まれるのか、などという話がでますね。

與那覇:平成のあいだ、主にリベラルな知識人は「ぼくたちが改革をやって、古い慣習を壊し、もっとのびのび自分の能力を発揮できる社会にします」と唱えてきました。だけど、自分自身に「社会で活躍できる能力がある」と思える人って、実はものすごい少数派なんです。

 結果として、多くの人はむしろ「たかだか後天的な能力でいばってるエリートは、ムカつく。どうせエリートぶるなら、『生まれからして違います』であってくれ。それなら我慢できるから」という風潮に流れていったようにも思います。トランプ大統領にしても、父親も不動産王だからそこまでたたき上げじゃないし、娘さんは完全に親のコネで仕事をしている。でも、それでいいという人たちが、現に多数派としているわけです。

 「反知性主義と戦う」というなら、トランプや安倍さんの個別の「バカな言動」ではなくて、そうした潮流の方を見なくてはいけない。かつて学者として、それができていなかったという反省も込めて、今回の本を書きました。

――難しい課題だと思いますが、本書の中では対案も出されていますね。

與那覇:現時点での粗っぽいデッサンにすぎませんが、そうです。「能力」というものの捉え方を変えるしかない。それにともなって、大学はじめ教育機関のあり方も、考えなおしていかなくてはいけません。

 ヒントをもらったのは意外にも、病気で知りあった友人たちと始めたボードゲームでした。たとえば、病気の症状もあって「能力が低い」人がゲームに交じると、進行が滞って、みんな不愉快になる。そういう風に考えがちですよね。率直に言って、自分も最初はそうでした。

 しかしそれこそが、平成の知識人と同じ誤りを犯していないか。むしろ能力を個人ではなく、その場にいる人びとの全体が共有しているものだと考えて、「個人単位で見た場合の能力差があっても、みんなが面白く楽しめるように、この場を運営すること」こそが、本当の意味でやりがいのある「ゲーム」ではないか。

 そうしたいわば「能力のコミュニズム」を通じて、ギスギスとしていく社会に新しい展望を開きたい。その考えに至ったとき、教員・学生相互の間で不協和音が広がり、安易な弥縫策で教育のレベルも下がってゆく目下の大学を辞めることに、まったく後悔はなかったんですね。「病気で失職した人の手記」と聞いて連想しがちな印象とは違って、むしろポジティヴな本にできたと思っています。
 

  
▲「WEDGE Infinity」の新着記事などをお届けしています。

関連記事

新着記事

»もっと見る