救急車の到着前にいったん意識が戻り、友人たちに「首が痛い、体が痛い」と訴え、その後の記憶はとぎれとぎれになっている。
事故後、1週間専門医が不在で手術まで時間が空いた。その間、今は体が動かなくても、時間を掛けてリハビリすれば元の生活に戻れると信じていた。
しかし、手術後、医師から告げられた言葉に愕然とした。
歩けるようになることはほとんどなく、これからの生活は車椅子で送るようになる。
「絶望とは違いますし、死にたいと思ったことはありません。19歳のときですから、一生車椅子生活になるってどういうことなのか、この先どうしていいのかわからなくて、夜な夜な考えてしまって1週間くらいは落ち込んで泣いていました」
精神的に追い詰められなかったのは友人たちの存在だった。あのプールで一緒にいた仲間たちが毎日お見舞いに来て、明るく時間を過ごすことができた。
若山の母親から病状のことは聞いていたはずだ。しかし、暗くなったり重くならないよう今まで通りに接してくれたことが嬉しかった。
「僕が閉じこもることを許すような連中じゃないんですよ。何かにつけて連れ出そうとしてくれましたし、半年後に成人式だったのですが、その友人たちがどんなことをしてもおまえを連れて行くって言ってくれて、本当に出席することができました」
「そんな彼らに僕が落ち込んでいるところを見せたくなかったのです」
人生を変えたウィルチェアーラグビーとの出合い
「ウィルチェアーラグビーのことはリハビリセンターに入院していたときに『マーダーボール』というアメリカ代表の映画を見て知っていました。その当時の僕には考えられないくらいに凄い競技だと思っていたのですが、後に日本代表で一緒にプレーする三阪洋行さんや島川慎一さんたちのプレーを直接見る機会があって、カッコイイと思ったのです。それがこの競技をはじめたきっかけです」
競技の持つスピード感やコンタクトの激しさは、当時の若山の生活にはなかったものばかりだ。それが若山の心に火をつけた。
復学しないで社会に出る道を選択し、埼玉県の国立職業リハビリテーションセンターに入所。そこでパソコンをはじめ社会に出るための職業訓練をする傍ら、毎週金曜日に行われているウィルチェアーラグビーの練習に参加した。
「それまでバスケットボールをやっていたのですが、ウィルチェアーラグビーをはじめてからはのめり込んでいきました。毎週金曜が待ち遠しくてその間の職リハを頑張っていたようなものです。僕がいま仕事で使っているパソコンスキルはこの間に学びました」
1年後、職業訓練を終えた若山は静岡に帰り、自宅から一番近いウィルチェアーラグビーチームの『横濱義塾』へ加入。本格的に競技の世界に入っていく。
若山が加入した2008年当時の横濱義塾は日本選手権で決勝進出を果たした強豪チーム。惜しくも準優勝に終わったが、その戦績がより若山を前のめりにさせた。
そして日本代表へと駆け上がっていった。
「僕が最初に日本代表に選ばれたのは2011年、イギリスで開催されたGBカップという国際大会でした。当時の日本代表は前年の世界選手権で3位になって、翌2012年のロンドン・パラリンピックの1年前という大事な時期でした」