この熱き人々

2019年3月26日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

ファッションに目覚める

 幼稚園の頃から絵を描くことが好きだった綿谷がファッションに興味を持ったのは、小学2、3年のとき。ファッションイラストレーターを目指そうと明確に決めたのは中学3年だったという。

 「それまではマンガ家になりたいと思ってました。『マンガ家入門』という本を買ってもらって、一生懸命描いていました。『少年サンデー』とか『少年マガジン』とかの懸賞に応募したり、マンガ家の先生のところに作品を持って行ったり。でも、佳作どまりでしたね。ストーリーが弱かったのかなあ。絵は得意だったんだけど」

 

 『マンガ家入門』でマンガの勉強をひとりで始めた少年時代、綿谷の将来を決めるもうひとつの出会いがあった。10歳年上の兄が買ってくる男性ファッション誌「メンズクラブ」だった。

 57年生まれの綿谷が初めて兄の「メンズクラブ」を盗み見した頃は、60年代半ば。世の中はアイビーファッションのピーク。日本が高度経済成長期に入り、少しずつ豊かになってお洒落を楽しむ余裕が出てきていた。

 とはいえ、既製服も今のように充実しているわけではなく、綿谷が育った東京の板橋はファッションの先端を行くエリアではない。どちらかといえば生活の匂いに溢れた下町。まして男の子がお洒落をすると、男のくせにと怒られたり不良と言われたりした時代だ。

 「父は左官の仕事をしていて、家は畳に障子。夏はランニングに、古くなった父の服を切って作った半ズボン。Tシャツもなかったしね。その頃、メンクラ(「メンズクラブ」)でマドラスチェックの半袖シャツとリーバイスのデニムの長ズボンにバスケットシューズを履いているアメリカの子供の写真を見たんですよね。同じ年頃の子供なのにって、けっこうなカルチャーショックでした」

 同時に、アイビーファッションを取り入れた穂積和夫のイラストに強い感銘を受けたという。挿絵画家がイラストレーターと呼ばれるようになり、職業として脚光を浴び始めていた。穂積のイラストに憧れながら、現実には着たくても着られないものを絵で描いて遊んで楽しんでいたという。

 「女の子が着せ替えで遊ぶようなものでね。妄想ですよ」

 だが、アイテムが揃って単に着せ替えて遊ぶのとは訳が違う。何が着たいのか。どんな時にどう着たいのか。頭の中で想像するのならイメージで十分だが、絵に描くとなると細部まで把握していないと描けない。

 「テレビや映画を見ても、細かいところを見ちゃう。シャツの襟のロールがどうなっているかとか、袖口の違いとか、目を皿のようにして見てました」

 ビデオがまだ普及していないから、全身全霊を傾けて目に焼き付ける。絵とファッションが結びついたことで、少年の夢はマンガ家からファッションイラストレーターへと変わっていった。

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