神戸電鉄の鈴蘭台(すすらんだい)駅に直結する、区役所や店舗、医療機関などを含む複合施設「ベルスト鈴蘭台・北区役所」は、オープンに向けて仕上げの内装工事が進められていた。左官・久住有生(くすみなおき)は、改札口から続くエントランスホールの壁の前で、右手に金槌(かなづち)、左手に鏝(こて)を持ち、昨日塗ったばかりの壁面の乾き具合を確かめている。
小さくうなずいて脚立に上がった久住は、壁の上部をやおら金槌で叩いて削り出した。床に敷いたシートの上に土がバラバラと音を立てて降り注ぎ、休みなく金槌を振るう久住の右腕の動きにつれて壁の表情がみるみる変わっていく。やがて、右上から左下に斜めに入ったラインから上は無数のエネルギーが湧きたつような印象に、そして下部は鏝で丁寧に押さえられたなめらかで穏やかな顔が出来上がった。
人々が山を削り、畑や棚田を作って生活し、やがて大都市神戸近郊の住宅地になったこの町の歴史を感じる壁を造ってほしいという施主の希望を受けて、久住は何度も何度も周辺を歩き回り、悩み、考えたという。
「職人は表現者ではないかもしれないけど、この壁はここで1回しか造れないものであり、最後の最後までいろいろと悩みます。優柔不断なんです。ぎりぎりで決断したその瞬間の最高のものしか、人の心にも時の流れの中にも残らないんじゃないかと思っています」
久住は、個人の住宅も大規模な商業施設も伝統建築物も、常にこの姿勢で仕事に臨む。
「アーティストは自分の思いを表現できますが、職人は自分の思いを押し切ったらNGです。お施主さんの希望やイメージを受け取って、お互いの思いをやりとりしながら形にしていく。それがずれてしまうと不幸なことになってしまいます」
久住は、言われたままにただ早く安く効率だけを求める仕事は、職人の仕事ではないと考えている。それは作業であり、ただ作業をするだけの人になってしまう。
「左官は常に壁を見続けているプロであり、お施主さんの多くは一生に1回の経験で、プロではないんです。本来は職人のほうが知っている。でも僕の思いを押し通しても気に入ってもらえなかったら、それはイヤなものにしかならない。かといって言われるままに造れば、日々の暮らしや周辺とのアンバランスで早晩飽きがきてしまう」