「本社機能の移転は、人口や市場の大きさ、取引先や海外との関係に起因するものが多く、営業部門や国際関連業務など、東京都内に立地した方が有利である機能が先行して移転する傾向が強い。事実、関西系総合商社や金融機関は60年代以前からすでに東京都内への拠点シフトを開始していた。近年は、広報・IR部門の東京都内への集中が顕著になっている」
いち早く東京へ移った商社
たしかに先の府研究所資料によると、在阪の総合商社は6社すべてが70年段階で複数本社制に移行し終わっていた。オイルショックで低成長となり、減量経営が叫ばれた75~79年において、6社は、総数を減らしつつも東京本社は増やすという従業員配置を行っていたという。さらに78年の調査によると、役員の勤務地比率も74.4%が東京だった。ビジネスの変化に敏感な商社が、先んじて経営の軸足を東京に移したのである。
東京一極集中の理由としては霞が関の存在も大きいようだ。大阪の中小企業に詳しい関西大学名誉教授・大西正曹氏は、「高度経済成長期に国を挙げて重厚長大産業を育成していった結果、産業界に対して多くの規制がなされた。官庁の許認可を得るには霞が関に日参する必要があるため東京に本社機能を置いたほうがよかった。また、業界動向の情報収集がしやすい」と指摘する。
この時代、日本の産業構造は大きく変化していた。60年代の高度成長に翳りが生じ、70年代は一転して低成長。オイルショックを契機に産業界は急激な生産調整を迫られ、世論は環境問題に注目していた。対外的には激しい貿易摩擦が発生し、85年のプラザ合意につながっていく。いわば日本が途上国から先進国の仲間入りを果たしていく時代。低賃金という武器を失い、生産性の向上を迫られるなかで、東京への一極集中は企業にとってごく自然な選択だったのである。
60年代の商社の本社移転から、この構造変化を予測するのはさすがに困難かもしれない。しかし、もっとわかりやすい変化が現れた指標がある。それは、人口統計である。
74年を境に、大阪圏からの人口転出が始まったのだ。現在まで続いているような持続的な傾向であり、かつ、東京圏や名古屋圏とは異なる明瞭な動きである。その主要因は就業者の転出だから、産業構造のあり方に早急にメスをいれなければ、域内経済の沈滞は免れないと判断できたように思われる。
しかし、大阪がとった対応は、このような変化を適切に汲み取ったものではなかった。
まず挙げられるのは、1964年に制定された工場等制限法への対応だ。都市部への産業・人口の過度の集中を防ぎ、都市環境の改善を目的に、首都圏と近畿圏で、原則1000平方メートル以上の工場の新設が制限されるという内容だ。その後、72年には工業の集積度が高い地域から低い地域への移転を促す工業再配置促進法、73年には工場を新設・増設する際、都道府県知事へ事前に届け出ることを義務づけた工場立地法が立て続けに制定された。これらは総称して「工場三法」と呼ばれる。
衰退の契機となった工業への強い規制
もちろん、その背景には公害問題があった。高度経済成長期、東京都や大阪府などの都市部では、産業と人口が過度に集中していたことに加えて、公害が深刻化していた。