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2019年4月26日

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馬場未織 (ばば・みおり)

二拠点居住ライター

日本女子大学大学院修了後、建築設計事務所勤務を経て建築ライターに。2007年から平日は東京、週末は千葉県南房総市の里山の二地域で居住する。田舎暮らしなどをテーマに執筆活動を展開。南房総の里山と都市に暮らす人をつなぐNPO法人南房総リパブリックの理事長も務める。著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。

“自然”という、自分都合ではどうにもならないことに向き合ってきた

 愛でたり味わったり観察の対象となる自然は、一方で、自分をとりまく環境そのものでもある。人間都合で合理的に整備された都市とは違い、里山の住環境では、人間は自然の影響をまともに受けることが多い。特に我が家は、低い山の中腹にぽつんと張り付いていて、裏山にはたくさんの動物が棲み、夜などはその音が間近に聞こえる。むしろここでは、人間の方がアウェイな存在だと言ってもいい。

 平日暮らす東京では一般的な住宅地に住んでいて、雨が降ろうが風が吹こうが、基本的には平穏な日々を送っている。家の前にのびる道は、何もしなくても当然のように明日も明後日も1か月後も1年後も、道として自分たちを通してくれると信じて疑っていない。

 ところが、だ。

 南房総の暮らしを始めて初の春。大風が吹いたらしく、裏の竹林は見るからに荒れていて、太くて長くて枯れた竹が山から道にヌッと突き出していた。これでは車で通ることができない。慌てて外に出て、竹を押したり引っ張ったりしたのだけれど、重たくてびくともしない。根元の方で他の木々に絡まって、どうにもならなくなっている。竹林を整理しなければ、風が吹くたびにこうして竹が突き出してくるのだろうか、と青ざめた。

 それだけではない。ふと足元を見ると、道の脇に広がる斜面の草はもう人が歩けないほど伸びきっていた。前週からどれだけ伸びちゃったんだ……!ぞぞっとマッシブに伸びた草は、自らの重さに耐えかねて道の方に倒れかけていた。コンクリートの割れ目からわずかに生えた草さえも、まるで破裂した水道管から噴き出す水のようにびゅんびゅんと伸びていた。耳をすませば、草の伸びる音が聞こえてくるような気がした。誰かがこの伸びを止めないと、わたしたちはほどなく自分の家に到達できなくなる。道は、すぐ、道でなくなるのだ。

 「草が怖い」と、思った瞬間だった。

 その時から、わたしの人生の傍らには常に刈払い機が置かれるようになった。特に4月から9月の間はひとときの油断も許さない。ふと来る足が遠のけば、その後に行くのが本当に怖い。あたり一帯ぼうぼうに生えた草で埋め尽くされ、梅雨頃などは竹や笹がツンツンツンツンと突き伸びて、敷地が針山の様相になる。

 もっと刈らないと、植生が変わり、雑木が生え始め、それまで畑や田んぼだった場所も瞬く間に林に変わってしまう。コンクリートがべたっと敷き詰められた都会では「草を刈る」という作業はまったく必要がないけれど、田舎では誰もが息するように草を刈る。それは、人間が生きる場所づくりそのものなのだ。

 とはいえ、週末がいつも晴れているとは限らない。

 さあ、野良仕事をするぞ!と腕まくりしようにも、週末ばかり雨マークという時がある。そうなると作業はてんではかどらない。今週は畑の手入れをしよう、と計画していても、豪雨では中止せざるを得ない。「なんで週末に限って」と呪わしく思っても、こればかりは誰のせいでもない。予定はあくまで、人間都合。空を見て、風の匂いをかいで、今日はお天気が持ちますようにと祈るばかりだ。

 人間社会だけで生きていると、予定というものはきっちり予定通りに進行するためにある、と考えるようになる。予定通りにならないと、原因を追及して軌道修正を図る。いずれにしても、すべて人間がどうにかできるもの、という範囲での考えである。

 ところが自然とともに生きていると、そうはいかない。こちらにはお構いなく、雨は降るし、大風も吹くし、せっかく刈った草も次の瞬間から伸び始める。自然は、アンダーコントロール、とはいかないのである。

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