2024年11月25日(月)

Wedge REPORT

2011年12月21日

 国際連盟脱退通告後(33年3月)ほどなくして、日本はロンドン世界経済会議(同年6~7月)に参加する。世界恐慌の克服を主題とするこの国際会議は、自由貿易のアメリカとブロック経済のイギリスが対立する。日本はアメリカと共同歩調をとる。なぜアメリカと協調したのか。高橋是清蔵相の積極財政の下で、金本位制からの離脱による円安の誘導=輸出拡大によって恐慌からの脱却をめざしたからである。

 輸出主導型の経済外交は、中南米やアフリカへと新たな市場を開拓する。地球の反対側にまで外交地平を拡大した日本は、主要国中、最初に恐慌からの脱却に成功を収める。他方で集中豪雨のような日本の輸出は、輸入制限措置や貿易障壁をめぐって、経済摩擦を激化させる。日本と英連邦特恵関税ブロック諸国との衝突が深刻になった。

 世界経済のブロック化によって市場が狭くなればなるほど、日本経済は対米依存を強める。アメリカの互恵通商協定による自由貿易がブロック経済を壊すことに期待したからである。

 そこへ日中全面戦争が起こり(37年7月)、日本の対米経済依存が強まる。比喩的に言えば、日本は対米輸出によって獲得した外貨によって、対中戦争の武器を買わなくてはならなかったからである。事情は中国側も同じだった。日中はどちらもこの戦争を「事変」と呼んだ。宣戦布告してしまえば、アメリカは中立法を発動して、日中のどちらの側にも立たない局外中立の態度をとるだろう。そうなれば頼みの綱の通商貿易相手としてのアメリカを失うことになりかねなかった。

 他方で37年12月の首都南京の陥落にもかかわらず、日中戦争は続く。日本はなぜ中国との戦争を続けるのか。戦争目的を明確にしなくてはならず、近衛内閣が掲げたのは、「日満支三国」が「政治・経済・文化等」の各分野で「互助連環の関係を樹立」する、すなわち「東亜新秩序」の建設だった。

 しかし「東亜新秩序」は、その経済的な側面の表現である「東亜ブロック」の確立が困難だった。なぜ排他的なブロック経済(自給自足圏)は作ることができなかったのか。日本経済は「東亜ブロック」圏よりもブロック外(とりわけアメリカ)との通商貿易関係の方が大きかったからである。日本が満州国と中国の経済開発を進める。これによって「東亜ブロック」を形成するためには、「東亜」地域に対する投資の拡大が欠かせない。投資のためには外貨が必要である。外貨はどのようにして獲得するのか。アメリカを中心とするブロック外への輸出によって得る以外になかった。

 それゆえ日中戦争下の国際的地域主義の構想は開放的地域主義だった。「東亜ブロック」は自給自足が可能なほどの資源を持たない。他方、ブロック内の生産はブロック内で消費できないほど過剰である。これこそがブロック経済の本質だった。それゆえ日本は30年代においても依然として続いている経済のグローバル化のなかで、域外の経済ブロックとの多角的貿易関係を結ぶことによって成立する国際新秩序としての「東亜新秩序」を模索する。

 しかしこのような新秩序構想を具体化するよりも欧州における独伊の台頭に幻惑された日本外交は、三国同盟を結びアメリカを敵に回す。アメリカの主敵はヒトラーのドイツだった。そのドイツと手を組んだ以上、日本も敵となった。本来、日米間には戦争を不可避とする対立要因はなかった。それにもかかわらず、アメリカからみれば日本も倒すべきファシズム国になった。その結果が日本の破局だった。

1930年代の日本から学ぶ3つの教訓

 以上のような30年代の歴史から学ぶべき教訓は何か。


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