二か所にばらばらに存在していたコミュニティが、次第に重なっていく
週末田舎暮らしを始めてしばらくは、“東京とは異質のコミュニティに所属する”ことに大きな価値を感じていた。同時に身を置くその二地域のコミュニティは、メンツも話題も会う場所もまったく違う。違うことが、価値なのである。
また、それらは互いに関係を持たずに存在し、その混ざらなさ加減が心地いい。東京では建築や都市について取材、執筆する仕事があり、南房総では地域の共同作業の草刈りをしながら、イノシシの出没情報や作物の出来不出来について話す。この振れ幅は、大きければ大きいほど楽しい。間隙にはリフレッシュがあり、学びがある。どちらの地域にも自分の身の置きどころがある、という安心感も生まれる。
そんな数年を経た後、変化が訪れる。
次第に、自然と、この両者が混ざり始めるのだ。
理由は単純。
自分の大事な人には、もう一方にいる大事な人を紹介したくなるから。
例えば、南房総に東京の友人が来る時に、仲良くしている地域のご近所さんにも声をかけたくなる。わざわざ南房総に来てくれるのなら、自分だけと会うより、きっとあの人がいた方が喜んでくれるはずだと確信する。ご近所さんにも、東京の友人を知ってもらいたいという思いが出てくる。
いずれにせよ、結婚相手に自分の家族を紹介するような心持ちである。
そして、これはけっこう素敵なことだ。
鼻水を袖でぬぐっていたような小さい頃から自分を知っている友人と、南房総のご近所さんは、双方きっと会うことはなかっただろう。その両者が出会い、笑いあい、「また来ます」「また来てね」と約束を交わす。
それ以降は、自動運転。友人とご近所さんは、自分が介在しようとしなかろうと、勝手に縁を深めていく。Facebookなどで彼らの親密なやりとりが垣間見られると、「ふふふ」とほくそ笑む。たまに宅配便役を買って出て、彼から彼女へと収穫した野菜を届けることもある。どっちの笑顔も見られるのは、役得だ。
好きな人には、自分の好きな人を好きになってもらいたいのだ。
そんな縁が重なり合っていくと、“東京のコミュニティ”やら“南房総のコミュニティ”などと線引きして違いを楽しむ段階を超えていく。友人がその友人を連れてきたりした日には、もはやわたしは彼らにとって、南房総カテゴリーの人間だ。ご近所さんを、わたしの親族と間違える人も出てくる。
さらには、東京のコミュニティで南房総の話に花が咲くことがある。その話ではいわゆる「南房総」というぼんやりとしたエリアイメージなど吹き飛ばされ、固有名詞がばんばん登場する。友人の中に、南房総の種が根を張るのを見るようだ。
地域という括りの境界線が溶けていくプロセスは、痛快でならない。そしてこれこそが、自分にとっての人生の広がりだなあと感じ入る。
ちなみに、この状態を“都市農村交流”などというダサい名前で呼んでほしくないとも思う。