李登輝の北京語は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか
李登輝夫妻ともに、母語は日本語といって差し支えないだろう。有名なフレーズだが、李登輝はたびたび「私は22歳まで日本人だった」と言う。それは裏を返せば、李登輝や曽文恵夫人の中国語はその年齢になってから学び始めた言語だということだ。
現役総統の時代、李登輝が話す中国語をメディアはたびたび批判した。当時のことを、同じ日本語世代の父親を持つ映画監督の呉念真は次のように語っている。
「李登輝が総統になって間もなく、記者を務める私の多くの外省人の友人たちは新聞でこう言い始めました。『李登輝の北京語は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか』と。
それは彼の文法が北京語の文法とはだいぶかけ離れていたからです。たとえば、先に話すべきところを後にし、後にしゃべるべきところを先にするといった具合です。そのため記者らは毎日、『北京語がどうしてこうなるんだ』と罵ったわけです。
そのとき私は突然わかったのです。『なるほど、私の義理の父がしゃべっている北京語も全く同じだ』と。義理の父は早稲田卒ですが、北京語はめちゃくちゃな表現がほとんどです。それは日本語が教育上の言語で、母語が台湾語である彼らにとって、北京語は外来語だからです。
ゆえに李登輝は記者から北京語で質問されると、必ずそれを日本語に訳し、日本語で質問の意味を理解してから、日本語で回答を考え、そしてそれを北京語に訳して返答していたのです。
(中略)若い外省人の記者らは、彼らの歴史的背景に立ち入ってそれを理解したことがないわけです。彼らは、この人たちが生まれてからずっと日本教育を受けたということを見逃していました。一夜にして中国人にならなければならなかったことを見逃していました」(2005年、呉氏が日本で行った講演から)。
22、3歳から中国語を習い始めた、ということは私と似たり寄ったりである。仕事でもよく顔を合わせる総統SPのひとりに言われたことがある。
「おまえの中国語はラオパン(李登輝総統のこと)の中国語に良く似てる。なんだか外国人が話すような表現がしょっちゅう出てくる」。
よくよく尋ねてみると、意味は通じるが、語順が違ったりして、なんとなく台湾人っぽくない表現がところどころに出てくるそうだ。そうは言っても、私も李登輝も、生まれながらではなく後天的に学んだ言語なのだから仕方がない。
なぜ、娘たちに日本語を学ばせなかったのか
そんな李登輝夫妻だが、実は二人の娘は日本語が話せるとか、日本留学をしたことはない。もちろん、多少の日本語は解するが、台湾の知識人の水準からいえば標準レベルだと思う。2014年の訪日時、同行した台湾メディアが「それぞれの日本語力は?」と姉妹に聞いた。姉の安娜が「小さい頃から、家庭内で両親の日本語はよく耳にしていたから、習ったことはなくても3割くらいは分かる」と答えたのに対し、妹の安妮は「聞く力は20%」くらい、と答えている。
そう聞くと、私でなくとも、NHKニュースを見て、『文藝春秋』を愛読するような夫妻の子どもたちが、なぜ誰も日本語が使えたり、日本へ留学したりすることがなかったのか、と疑問に思うだろう。
以前、一度か二度、世間話のついでに「どうしてお子さん方に日本語を学ばせるとか日本へ留学させるということを考えなかったのですか」と李登輝に尋ねたことがある。
ちょっと困ったような笑顔で李登輝は「子どもたちが何を勉強しようか、うちは自由なんだ。親がいくら日本との関わりが深いといってもそれを子どもたちに強制することはなかったよ。それだけのことだ」と、いつも多弁な李登輝にしては言葉少なに答えたのが却って印象的だった。
これは私の推測だが、この答えの半分は正解で、もう半分の表に出さない答えがあるのではないかと思う。子供の自由な選択に任せる一方で、やはり台湾の戦後に暗い影を落とした「白色恐怖」が無意識のうちに李家から日本を遠ざけていたのではあるまいか。
当時の台湾では日本語はご法度であった。戦後に始まった日本語禁止令が、80年代後半に解禁になるまで、日本語を公の場で話すことはもちろん、観光客などが日本語の新聞や雑誌、書籍を台湾へ持ち込むことも禁止されていた。ましてや日本統治時代、帝国陸軍少尉として戦った李登輝は「スネに傷あり」の身分なのだ。
子どもたちの自主性を尊重するという両親の教育方針と、日本語を学んだり使ったりすることで、子どもたちの身に災難が降りかかることを回避しようという意識が、知らぬ間に働いていたのではないだろうか。
余談だが、李登輝夫妻の子どもたちが学生生活を送っていた時代、台湾では大学で日本語を学べるところは限られていた。私立の文化大学や淡江大学に「東方語言学科」という名で、あたかも世を憚るように設置されていた程度だった。国立の台湾大学に初めて日本語学科が開設されたのは、民主化後の1994年のことである。
実際、父親の李登輝自身でさえ、戦後の二度の留学はアメリカだった。修士課程を学んだのはアイオワ州立大学だったし、ロックフェラー財団の支援で博士号を取得したのもコーネル大学だった。このときのことを李登輝は「二度のアメリカ留学は『実務的な訓練だった』」と語っている。これは精神的な基礎を形作ったのは日本教育であり、戦後の米国留学は純粋な研究面での教育だったことを李登輝自身も認識していることを示唆しているのではなかろうか。
自主性を重んじられ、自分の学びたいものを尊重してくれる両親のもと、娘たちはそれぞれ英米での教育を選択した。姉の安娜は現在、台中でアメリカンスクールの理事長として切り盛りしているし、妹の安妮は英ニューキャッスル大学で社会政策の博士号を取得した。現在はシンクタンクの研究者として勤務する一方、政治の世界にも携わるなど、父親と同じような道を歩んでいるのは妹のほうといえるだろうか。
32歳の若さで亡くなった李登輝の長男
最後に、李登輝夫妻の最愛の息子、李憲文についても触れておかなければならないだろう。憲文はきょうだいの一番上であり、唯一の息子だった。長じた二人の妹たちがあまり日本語を解さないのに対し、憲文はかなり日本語を身につけていたようだ。文化大学を卒業し、新聞記者となった傍ら、日本への旅行で見つけた『権力複合態の理論 : 少数者支配と多数者支配』の中国語版を翻訳出版している。
憲文は同級生と結婚した3年後、1982年にガンで32歳の若さで亡くなっている。一人娘の坤儀はまだ7ヶ月だった。当時、省主席だった李登輝は、息子の亡骸をストレッチャーに乗せると「冷たいだろうから」と、自ら抱いて運んだという。
息子が闘病生活を送っていたものの、父李登輝は省主席としての任務も全うしなければならない。特に、答弁では何人もの省議員から突き上げを喰らう激務であった。後年、週刊誌の報道で「当時、少しでも息子のそばにいてやりたい李登輝に対し、一部の議員が嫌がらせのためにいつまでも質問をやめないことがあった」とも報じられた。このことについても李登輝は「もう終わったことだ」と答えなかったという。
そばにいる私たちでも、李登輝夫妻に亡き息子のことを尋ねるのは憚られる。ときおり、李登輝自ら、来客に対して「鼻腔ガンだった。今だったら完治させられるだろうけど、当時の医学では太刀打ちできなかった」などと話すのみだ。
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。
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