2024年12月22日(日)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年6月20日

この連載をまとめた書籍『総統とわたしー「アジアの哲人」李登輝の一番近くにいた日本人秘書の8年間』(早川友久 著・ウェッジ)が2020年10月20日に発売されます。

 2014年9月、李登輝は関西国際空港に降り立った。2007年から3年連続で訪日したものの、そこから5年間は機会がなかった。というよりは「奥の細道」散策の後半を辿るとか、台湾少年工の里帰り記念式典に出席するなど、計画が進められたこともあったのだが、体調を崩したりして頓挫してしまったのだ。

 このときの訪日では、初めて実現したことがあった。愛娘二人を連れての日本行きである。1945(昭和20)年、台湾は日本の統治下を離れた。李登輝も京都帝国大学での学業半ばで台湾に戻ることを余儀なくされたのである。その後、台湾大学に編入学し、農業経済学者としての道を歩み始めたことで、視察や研究の一環で日本を何度か訪れたことはあった。

台北市長時代の家族写真。左から李憲文さん、長女の李安娜さん、李登輝さん、奥様の曾文恵さん、次女の李安妮さん

 一人息子の李憲文が綴った文章にも、日本へ出張した父親が「最新のグラスファイバーの釣り竿を買ってきてくれる約束になっていた。タラップを降りてきた父の手に細長い包み紙があるのを見て、預け荷物にせず、自らの手で息子へのお土産を持ってきた父の愛情を感じた」と書かれている。

 しかし、家族を連れて日本へ旅行に行く機会は訪れなかった。現在でもそうだが、台湾の現職総統は日本訪問が不可能だ。そのため、総統に就任する前、最後に日本を訪問したのは副総統だった1985年のこと。国交が無いながらも関係が良好だった南米のウルグアイで大統領就任式典に出席した帰途、東京でトランジットしたのだった。

 余談だが、このとき、李登輝は初めて中嶋嶺雄・東京外国語大学教授(当時)と会っている。中嶋が書いた『北京烈烈―文化大革命とは何であったか』などの書籍を読んだ李登輝が、「これほど中国を鋭く観察している学者が日本にいるのか」と感嘆し、面会を申し入れたという。

 自民党議員との晩餐会のあと、ホテルオークラの一室で会った二人は深夜まで話し込み、中嶋は後に日本における李登輝の最も親しい友人のひとりとして「アジアン・オープン・フォーラム」を開催したり、2007年の「奥の細道」散策をお膳立てするなどして李登輝の対日交流を支えた。

東日本大震災をきっかけに日本が変わった

 話を戻そう。2014年の訪日は「日本李登輝友の会」による招請だった。大阪と東京での2度の講演に加え、李登輝自身にとって初めて北海道の地を踏むこともスケジュールに組み込まれた。李登輝夫妻に同行したのは、長女の李安娜と次女の李安妮だった。

 講演で李登輝は「本日、会場には、家内と二人の娘も来ております。日本へ行くことを決めたとき、娘たちから『これほど日本と縁の深い父親なのに、一緒に日本へ行ったことが一度もない』ということで、91歳になって初めて娘たちを連れて日本へ参ったわけです」と話し、立ち上がって挨拶する家族に会場からも大きな拍手が贈られた。

 翌年7月、国会議員会館での講演を要請された李登輝は再び東京へ赴く。やはり長女と次女夫妻、孫娘の李坤儀らを引き連れての訪日だった。このときは、台湾の総統として歴史上初めて日本の国会においての講演が実現したのだった。

 1972年の国交断絶以来、日本は幾度となく中国におもねり、台湾を軽んじる場面があった。李登輝自身、総統退任直後は訪日ビザが発給されず「日本外務省の肝っ玉はネズミより小さい」と不満を顕にしたことさえあったのだ。

 しかし、日本は変わりつつあった。正式な外交関係はないものの、台湾を中国とは別個の存在として尊重し、中国に対して過度に配慮することは世論が許さない空気が生まれていたのだ。

 ここでは多くを書かないが、それには2011年の東日本大震災で台湾から有形無形の大きな支援が贈られたこと、それがネットを通じて広く知られたこと、中国寄りのメディアに対しやはりネット上で批判的な声が大きくなったことなどが挙げられるだろう。

 このとき、李登輝の胸中には、台湾人の総統が日本の国会で講演する時代がやっと来た、という感慨と同時に、そのハレの場に家族を伴いたいという誇りのようなものがあったのかもしれない。

機内で垣間見た父娘の会話

 前年に続き、このときの訪日でも、島一範・全日空台北支店長(当時)をはじめとするスタッフの方に、フライトのみならず空港でのハンドリングや荷物の対応など大変お世話になっていた。東京へ向けて飛行する全日空機内から夕暮れの富士山の姿が見えた。

 李登輝は次女の安妮を呼び、窓の向こうを見やりながら娘と話しているのが見える。あまりにも親密な父娘の会話なので、私は遠慮して近づかなかったが、窓の暗さを調節する機能について娘が父に説明している会話が聞こえてきた。このときの全日空の機材は窓のシェードを下ろすタイプではなく、電子制御で窓の暗さを調節する当時最新のものだったからだ。90歳を超えても、新しい技術に高い関心を寄せる李登輝らしい父娘の会話である。

 残念ながらこのときは、曽文恵夫人は直前になって体調を崩してしまったため同行出来なかったが、女性ばかり家族水入らずで東京と宮城県を訪問した訪日は大成功をおさめている。


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