2024年12月22日(日)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年4月30日

 1995年7月、中国は台湾近海へ「演習」と称し、弾道ミサイルを打ち込む暴挙に出た。李登輝としては、当時中国との間に存在したチャンネルを通じて寄せられた情報によって、ミサイル発射が威嚇あるいは建前上のものに過ぎないことがわかっていた。

 とはいえ、やはりその脳裏には70年前、「これでは日本は戦争に勝てない」という確信を抱かせた光景がよぎったかもしれない。

写真:ロイター/アフロ

李登輝が「中国には勝てない」と思ったワケ

 李登輝は過去に一度だけ中国大陸を訪れたことがある。台湾がまだ日本の統治下にあった昭和19年の頃のことだ。

 前年、台北高等学校を卒業し、京都帝国大学農林学科へ内地留学をしたものの、戦火の広がりとともに学業半ばで志願兵となった李登輝は、台湾南部の高雄に派遣され高射砲隊の訓練を受けていた。

 数ヶ月の訓練を終え、いよいよ内地へ戻ることとなった。船による長旅である。しかし、昭和19年ともなると日本軍は米軍の力に押され、東シナ海には米軍の潜水艦がうようよしていた。いつ撃沈されてもおかしくない状況である。

 そこで李登輝らを乗せた輸送船は台湾海峡をいったん北上し、中国大陸沿岸に沿ってさらに北上した。そして、しばらくの間、山東省の青島で錨を下ろすことに決めた。

 一週間ほど滞在した青島で李登輝が見た光景は衝撃的だった。港では背の高い山東人と呼ばれる地元の港湾労働者たちが、日本や台湾では見られないような不潔で暗い、労働環境としては最悪の場所に身を置きながら立ち働いている。

 その時、李登輝はこう思ったそうだ。

「この絶望的なまでに低い生活水準のなかで生きていける人々と戦っても、日本は勝てないのではないだろうか」

 中国人が、日本や台湾とは全く異なる文明や価値観に置かれた人種であることを李登輝が悟った瞬間でもあった。ほんのわずかであっても、中国や中国人というものを実地に見た経験が、李登輝の中国に対する警戒心を醸成してくれたのかもしれない。

 戦後になり、内地から台湾に戻った李登輝は、228事件勃発後に国民党側と台湾側の代表の話し合いの場に立ち会った際、早々に引き上げている。李登輝は後にインタビューで当時のことをこう回想している。

「ちょっと聞いただけで危ないと思った。中国人たちはのらりくらりと時間稼ぎをしているに過ぎないのが見て取れたからだ」

 時代はめぐり、自身が台湾の総統としてその中国と正面から対峙することになるとは、当時の李登輝はゆめゆめ思わなかったことだろう。


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