中国のミサイル発射が高めた李登輝支持
そこで黙っていないのが中国である。李登輝訪米を「ひとつの中国を破壊させるもの」「台湾独立の企み」などと非難したうえで、積極的に台湾封じを始めたのだ。
例えば、95年7月中旬に予定されていた台湾と中国を繋ぐ正式なチャンネルである「辜汪会談」が中断され、両岸関係の安定に影響を与えた。そして、8月15日からは「軍事演習」と称して台湾の北方約136キロの海域に向けてミサイルを発射したのである。
しかし李登輝は、当時中国との間に存在した別のチャンネルによって事前にミサイル発射の情報を得ていた。中国が台湾への「威嚇」としてミサイルを打ち込んでくるものの、それは決して「武力攻撃」ではない、という中国側の意図を理解していたのだ。
そこで李登輝は民衆に向かって「怖気づくことはない。シナリオは準備してある。心配するな。弾頭は空っぽだ」と鼓舞するとともに、株式市場の暴落や銀行の取り付け騒ぎが起きた場合に備え、事前に十分な準備を進めていることを明かして民衆の動揺をおさめた。中国の「恫喝」は、皮肉にも李登輝支持の民意を高める結果を招いたのである。
このミサイル危機の翌年に行われた台湾初の総統直接選挙で、李登輝は国民党候補として当選した。対抗馬である民進党の総統候補は、戦後の独裁政権下で台湾の独立を主張したことで軟禁され、後に亡命して海外生活を長く送った彭明敏だった。主張からいけば、台湾の人々は彭明敏を支持してもおかしくなかったが、実際に選ばれたのは李登輝であった。そこには「強いリーダー」として、中国の暴挙から台湾を守り、社会の安定を維持した李登輝の手腕が、人々の脳裏に鮮明に残っていたからであろう。
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。
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