蒙自を発ち昆明へ
昆明を間近にした汽車の中で「日本語のよく分る学生服を着た支那人」に出合う。数日前に言葉を交わした岩倉鉄道学校生徒の兄で「東京高等師範学校の学生」だという。
昆明に着いて米内山が世話になったのは「南門外の保田商店」である。当時の昆明は日本と密な関係を持ち、「日本人の教習が多く、農業学堂などは殆ど日本人の教習で持つてゐるといふ有様でありまた、日本の士官学校に相当する雲南講武堂なども、日本人の教習こそゐなかつたけれども、校長初め教官は殆ど全部といつていゝほど、日本の陸軍士官学校出身の人々であつて、私共を大いに歓迎した。私は雲南の日本色の濃いのに驚いたのであつた」。かくて「雲南は極めて好い印象を私に与へた」という。
ここで米内山の旅を少し離れ、日本と雲南の関係が最も緊密だった頃を振り返っておく。
雲南講武堂の正式名は雲南陸軍講武学堂で、20世紀初頭に設立されている。共産党政権成立の元勲たる朱徳や葉剣英も学ぶなど、辛亥革命から共産党政権成立までの激動の20世紀前半を語るうえで欠くことのできない軍人を輩出している。
じつは雲南は清朝打倒を掲げる革命運動の中心でもあり、その原動力となった日本の陸軍士官学校に留学した若き将校たちは、母校の日本陸軍士官学校に倣った軍人教育を目指した。古来、「好鉄不当釘 好人不当兵(いい鉄は釘にならない、いい人は兵にならない)」と形容されるように匪賊と五十歩百歩であり、社会的に問題のある若者を兵士として徹底教育し、日本式の立派な戦士に鍛え上げたのである。
東京で革命工作を続ける孫文などに共感したことから陸大を退学させられた上に剥官処分を受けた加藤信夫は、体育学校を創設し講武学堂の予備教育に尽力した。辛亥革命によって誕生した中華民国の初期、雲南を基盤に中国政治に影響力を発揮した人物の1人に唐継尭がいる。彼もまた日本の陸軍士官学校に学んだ親日家であり、山縣初男以下数人の日本人を顧問として招請し、省の財政・軍事などを委ねたのである。
大正初年頃から末年(1910年代初頭から1920年代前半)まで、昆明には100人を超える日本人が在住し、日本から大工や左官を呼び寄せて日本流の座敷を作り、雲南省政府高官の邸内には桜が植えられ、村上洋行、安田洋行の両商社のもあった。当時、昆明の湖には日本から持ち込まれたモーター・ボートが浮び、さながら昆明の日本人にとっての黄金時代を現出したものだ。
「陸軍支那通」の代表格で、極東軍事裁判で絞首刑判決を受けた板垣征四郎は陸大卒業後の大正6(1917年)に昆明で勤務し、2年ほどの滞在の後に漢口に転じている。
おそらく若き日の板垣は、雲南省政府高官の邸内に咲く桜を愛で、モーター・ボート遊びに打ち興じたことだろう。
後に日中全面戦争へと戦線の拡大化に伴い「かつての親日都市昆明」は「抗日拠点」へと性格と役割を大変身させ、連合軍による「援蔣ルート」の最重要拠点となった。1949年の共産党政権成立を機に毛沢東が対外閉鎖に踏み切るや、昆明は中国西南辺境――広大なゾミアの中に消えてしまい、加藤も山縣も忘れ去られ、日本の昆明への関心は薄れる。
だが1970年代末に鄧小平が毛沢東政治の大転換を図り、改革・開放の大号令を発し、1990年代初頭に李鵬首相(当時)が「西南各省は南に連なる東南アジアに向かって大胆に進め。自らの智慧と力で貧困を打ち破るべし」と号令を掛けて以降、四川、貴州、広西などの西南各省を軸に東南アジアとの接点を求めて動き出した。漢族の“熱帯への進軍”が再開されて、いまやゾミアは一帯一路の舞台へと変貌している。