2024年11月22日(金)

明治の反知性主義が見た中国

2019年8月7日

狡猾なドイツ式ビジネス

 成都でも、ドイツは縦横の振る舞いを展開する。

 先ず「成都に於ける外国製品で最も優勢なものは独逸品であ」り、それは「頗る支那人の嗜好に適し、堅牢でさうして価が安い」からだ。一例としてドイツ人は四川特産の竹製諸器物に着目し、「これと同じ形のものをエナメル塗りの金属を以て造つて支那人の眼の先きへ突き出した。竹製のものに比べて堅牢であり軽便でありしかもよく湿気に堪へる。さうして価は安い。支那人がこれに手を出さない訳はないのである」とする。やはりドイツ製品は当時の成都で他国製品を圧倒していたのだろう。

 じつは「商品を軍艦で運んで来る」ドイツは、「輸入税を一文も払はない。だから価を安くして売ることが出来る」のだ。これに対し「仏国や米国は宣教師の荷物として商品を持つて来る。たゞ英国だけは堂々と正規の手続きを取り税金を払つて持つて来る」。

 製品に劣らず成都で活躍しているのはドイツ領事だ。

 「支那官憲と聯絡するに金を使ふことは少しも惜しまず、あらゆる手段を尽して利権の獲得に努めてゐる。機器局の技師は独逸人で独占し、いま製革廠にまで手を伸ばさんとしてゐる」。じつはドイツ領事は製革廠の責任者に「オルガンだのピヤノなどを贈」るだけではなく、彼の邸宅に「自ら洋酒や料理を持つて」出向いて「饗応したりする」。「現在の製革廠技師小西氏を逐つてこれに代つて独逸人技師を入れようとする下心であることは明かに分つてゐる」。

 さらにドイツの策動は続く。「独逸領事は、また西蔵にも興味を持ち、蔵文学堂教師の西蔵人某を一週二回づゝ自宅に招んで西蔵語を習つてゐる」。そればかりか語学教師として破格の授業料を払っている。それというのも彼は役人であり、四川省政府のチベット関連公文書の一切を取り仕切っている。「故に西蔵と四川との交渉往復は第一にその西蔵人の知るところとなり、第二に独逸領事の知るところとなるといふ」。ドイツ領事は、居ながらにしてチベットの内情に加えチベットと四川(ということは清国)の交渉の詳細を知ることができるわけだ。

 しかも、である。「該領事は独逸陸軍中尉で、今度帰国に際して西蔵を経て西に向はんとして支那官憲に交渉中といふ」から、米内山ならずとも「いかにも独逸の活動心憎きまで潑溂たるものあるを感じ」るだろう。

 この手段を択ばぬドイツの狡猾さは、果して現在に至るも脈々と生きているのだろうか。

 以後、成都を離れ長江沿いの名勝古跡を訪ねながら上海に戻ることになるが、「支那では無銭旅行は絶対に出来ない。金がなければ米一粒、燐寸一本でも得られない。あかの他人に対する同情など金の草履穿いて探し歩いたつて見つからない」。そこで「第一に自分の足に頼るのと、それから第二に、兎に角金を持たなければ」と記している。

 この米内山の実体験から生まれた“警句”を、現在の日本人も真っ正面から受け止めるべきだろう。やはり第一は「自分の足」、そして第二は「兎に角金」・・・。

注記:引用は米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)に依った。

  
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