米内山は次の目的地を目指し昆明を発つ
「山また山の雲南」であり、昆明からは「何処へ行くにも山を越えなければならない」。「しかも並大抵の山ではなく海抜一万尺の山々だ。ほんたうに千山万嶽の路だ」。昆明からほぼ真っすぐ北上する「所謂雲南四川大路は、一万尺の山々を越えるもので、車は勿論、ところに依つては馬も通ぜず、文字通り山嶽を登攀して行く路だ」。
出発の朝、安田商店では「一路平安を祈つて赤飯を祝つてくれた」。遠く郊外まで送ってくれた在留邦人に向って「日の丸の旗を振りながら互いに影の見えなくなるまで名残りを惜しんだ」。歩を進めるに従って山路は峻険さを増す。「一歩は一歩より高く、行手を見ると路は次第に高く遥かに雲に入つてゐた。下は柳樹河の溪谷深く、その岩を踏み崖を攀ぢて行く。路端に芙蓉の花が咲いてゐた」。時に「朝霧を分けつゝ高原の路を行く」。
雲南四川大路途中の東川で訪ねたのは、イギリスの教会だった。
主のイーヴワン氏は「東川に來てすでに八年、土語に通じてゐた」。夫人は夫人で周辺少数民族、わけても「苗族のことをいろいろ調べてゐた」。フランスの勢力圏ともいえる東川だが、イーヴワン氏は布教活動に専心しているわけでもなさそうだ。夫人は少数民族調査、つまり侵略のスムースな展開を進めるための学問である文化人類学の学徒――となると、この夫婦の役割も判ろうに。
さらに道を急ぐ。
「途中で仏蘭西人の宣教師らしい鬚の生えた外国人の馬で来るのに行き会つた。私が昭通で二回も訪問したが不在で会へなかつた天主堂の宣教師だらう」。じつは、昭通で「天主堂を訪問したが、仏蘭西人の宣教師は旅行中とのことで不在だつた。福音堂に英国人の宣教師を尋ねたがまた不在、その夫人の紹介に依つてさらに東門外に同じく英国人宣教師チャーレス・エヒックス氏を訪うた」。「支那にゐること已に十三年、支那文及支那語に通じてゐるとのことであ」る彼は、この地方には珍しい豪壮な館に護衛兵に守られて住んでいた。「この附近で英国人宣教師の暴民に殺された事件があつた」かららしい。
やはり英仏両国は、雲南から北上し四川へ。攻略の先兵として宣教師を送り込んでいたようだ。それにしても「支那にゐること已に十三年、支那文及支那語に通じてゐる」ような宣教師は、米内山が歩いた雲南・四川だけに認められていたわけではあるまい。中国各地でインテリジェンス活動を地道に続けていたと考えるべきだろう。
地味豊かで産物豊富なところから「天府の国」と呼ばれるだけのことはある。四川省に入ると、沿道の様相は一変する。「山に樹木多く、土地は、平地はいふまでもなく、さらに谷間から山の坡に至るまでよく耕されてゐた。水田もあり畑もあり、稲は十分に実つて穗を垂れてゐた。(中略)田や畑の間には人家多く小供が遊んだり鶏が鳴いたりしてゐた。いかにも雲南の山を出たといふ感じであつた」。
以後、四川各地を歩くことになるが、「人口約二十萬、四川省屈指の大都会」で塩の産地として知られる自流井で薬屋を営んでいる「長野県人春日護」に偶然に出会った。「その夜、春日氏に招かれて鋤焼きの御馳走になつた」。彼は「薬屋を開いてゐるが、この土地は富豪が多く、さうして日本人に非常に好意を持つてゐるので、その人々を対手として何か大きい商売をしようと考へてゐるとのことであつた」。
じつは「自流井には日本人留学生出身のものが多く現に三十人ばかり知つてゐるとのことであつた。外国人としては福音堂に英国人四名、天主堂に仏蘭西人一名ゐるといつてゐた」。自流井には塩を製造するために地中から塩水を組みだす塩井の外、ガスを掘り出すガス井戸もある。自流井が「四川の富の中心」である由縁は、この塩とガスにあったわけだ。
春日の案内で「自流井の富豪の一人である王家を訪問」し、王家経営の学校や塩井などを見学する。四川屈指の富豪である一族は「頗る日本好きで家族の中東京に留学してゐる者が五六人、その使用人を加へて十数名東京で一家を構えてゐるとのこと」。王家は「初等小学堂から高等学堂、さらに女学堂」までを経営し、教育機材は日本製で「日本の制度に倣」うだけでなく、「東京朝日新聞が備へつけられてゐた」というから驚くほかない。
その後、四川省各地の名勝古跡を見物して到着した省都の成都では、多くの日本人が働いていた。製革廠で働く小西氏は、「明治四十年、四川総督の委嘱を受けて西蔵境の巴塘まで行つて來たという」。「この年の四月以来成都を中心として四川各地を跋渉し」チベット近くまで足を延ばした「福田麥德畫伯」。「二十日ばかり前に成都を出發して巴塘に向つた」という「矢島某」。陸軍医学堂教習の「兒玉氏」、鉄道学堂の「教習百瀬氏」、工業学堂教習の「市川氏」、府中学堂の「鈴木氏」と「山本教習」、高等学堂の「教習三木氏」に「諸教習」、蔵文学堂の「教習相田氏」、さらに成都の旧市街の「通省師範学堂、工業学堂、法政学堂、両級師範学堂、農業学堂等」には「何れも日本人教習がゐた」という。
ならば当時の我が政府当局は、この巨大なソフト・パワーを全面展開することを考えなかったのだろうか。考えなかったとしたら、じつにモッタイナイ話だ。