5月22日、トランプ米大統領は、領空開放条約からの離脱を決め、ロシアに通報した。領空開放条約は1992年米ロ(当時はソ連)を含む34か国が署名したもので、署名国が他の署名国の領空に航空機を飛ばし、合意された特定のセンサー技術を使って軍事施設などを監視することで国際の安全を強めることを目的としたものであった。
米政府は、かねてより、ロシアが核兵器を展開していると見られる都市や主要な軍事演習の上空の飛行を許可せず、条約に違反したと不満を述べていた。また米情報当局は、ロシアがサイバー攻撃の対象となる米国の主要なインフラの写真を撮っていたと述べている。これらが、米側が言う、今回の条約離脱の理由である。
しかし、同条約の効果により部隊の動きや集結状態が分かるので、ロシアに近接した欧州諸国にとって特に重要な意味を持っていた。5月21日付けのニューヨークタイムズ紙の記者デイビッド・サンガーによる解説記事‘Trump Will Withdraw From ʻOpen Skiesʼ Arms Control Treaty’は、「トランプの決定はNATO加盟国などの欧州の条約当事国の不満を呼ぶのは必至である。米国が離脱すればロシアが欧州機の飛行を許可しなくなることは必至で、そうなると特にバルカン諸国にとって重要なロシアの軍の動きの監視ができなることになる」と指摘している。
この条約に見られるように「スパイ行為」を公式に容認することで信頼性と透明性を確保しようとするのが軍備管理体制の重要な局面の1つである。これは、存廃が注目されている新戦略兵器削減条約(新START条約)にも当てはまることである。新START条約では米ロ両国の検証チームが相手国の核弾頭と運搬手段につき頻繁に現地査察を行うとともに、特定日にミサイルと核弾頭がどのように展開されているかにつきデータを交換してきた。これによりミサイルと核弾頭についての情報の信頼性と透明性を確保したのであった。
秘密主義を重視するロシアが新START条約でここまで合意したのは、軍備管理の重要性を認識したためであったが、領空開放条約については、ロシアは特定都市や大規模な軍事演習の上空からの監視を拒否してきた。国務省は年次報告で2005年以来ロシアが条約上の義務を守っていないと指摘、2017年に至ってロシアの義務不遵守は条約違反であると断定している。ポンペオ国務長官は5月21日の声明で、ロシアがポーランドとリトアニアに挟まれた軍事的要衝地カリーニングラードなどの空からの査察を制限していると非難した。米政府当局は、このようなロシアの条約違反が続く一方でロシアは米国の空からの査察を続け、米国の安全保障にとって脅威であると述べている。
トランプが領空開放条約からの離脱を決めた背景にはロシアの度重なる条約違反があるが、それと同時にトランプが軍備管理をあまり評価していない事情もある。トランプは1988年に発効したINF廃棄条約を2019年8月に失効させている。2017年に離脱したイラン核合意も、イランの核兵器取得能力を規制したという意味では軍理管理取り決めの1つと考えてよい。他方、プーチンは軍備強化に努めており、それに妨げになるような領空開放条約はあまり遵守する気がなさそうである。
もっとも、領空開放条約は当初の意義を失ったと指摘する向きもある。近年の衛星写真技術の進歩で、航空機を飛ばさなくても地上の軍事施設や軍の動きが分かるということである。米国の一民間会社の衛星写真が北朝鮮の核活動をフォローしているのは周知の事実である。確かに、領空開放条約は直接核兵器の規制を定めたSTART条約やINF条約に比べれば、軍備管理条約としての重要性は落ちるかもしれない。しかし当事国同士の信頼と透明性の確保という、軍縮管理体制の根底にある原則を考えれば、その重要性は小さいとは言えない。その領空開放条約が廃棄される運命にあるということは、今の世界で軍備管理体制が弱まり、不安定性が高まっていることを象徴するものといえるだろう。
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