2024年11月23日(土)

Wedge REPORT

2020年7月15日

 野生酵母は扱いが難しい。なので、まさにクラフト(職人)の技により、楽しめる領域である。ちなみに、ヒメホワイトは国際的な賞を複数とっていて、世界からの評価は高い。

「物心ついたときから生物が大好きでした。昆虫をはじめ、蛇に蛙、亀などを飼いました。やがて、顕微鏡でしか見ることの出来ない微生物に興味をもっていきました」

 こう話す鈴木は、餅屋の21代目である。お伊勢参りの参拝客にきなこ餅を供するお店で、1575年から商売をしているそうだ。

「超老舗の跡取り息子」…。1967年に生まれたときから鈴木の将来は、半ば決められていた。御曹司のためか、おおらかな性格であり、発想は豊か。そして、微生物をはじめ生き物を愛する優しい性格をいまも持ち合わせている。

 名古屋市の東海高校から東北大学農学部に進学する。

 「せめて、大学では好きなことをやろう」

 3年までは空手部の活動に打ち込み、徹底して根性を鍛える。一転、最終学年では海洋性プランクトンの研究に没頭した。

 92年に東北大を卒業すると、予定通り家業に入る。餅のほかにも、祖父が大正期に始めた味噌・醤油事業も副業的に行っていて、100年ものの樽を使っていた。が、予想されたことだが、物足りなさが溢れてしまう。起床して、餅にきなこをまぶし、毎日ほぼ同じ作業を繰り返す。半径30メートルで日々が動き、気が付けば1年が経過していった。

 伊勢神宮への参拝客は途切れない。なので、よく言えば安定に満ちていたものの、変化のない退屈な生活だった。

地ビールブームに乗って飲食店開業も…

 そんななか、国は94年に酒税法を改正してビールの最低製造数量を年2000キロリットルから、年60キロリットルへと、大幅に規制緩和する。当時で言う、”地ビール解禁”だった。

「とにかくやろう。餅屋の仕事はもう飽きた。俺が変えなければならない」

 鈴木の胸は高鳴った。高鳴る理由は二つあった。一つは「ビールをやれば、大好きな微生物である酵母と遊ぶことができる」ということ。

 もうひとつは、「ビールを通し、世界に通じられると思ったから」。実は東北大学で鈴木が所属していた研究室は、世界の最先端を走っていた。世界を感じる舞台に復帰したいとの思いがあったのだ。

 「夏場は餅は売れません。そこを、地ビールで埋め合わせます」

 両親や銀行などには、もっともらしく説明する。さらに、取材にやってくるメディアにも。

 いわゆる第一次”地ビールブーム”に乗り、97年までに全国で約100社が参入するが、そのうちの一社として97年に事業をスタートさせた。

 94年に即断し、97年に事業を始めるわけだが、いつの間にやら計画の規模はどんどん大きくなっていく。

 国税庁から「60キロリットルをきちんと売れるよう、飲食店を併設してもらいたい」と指導が入る。飲食店、すなわち醸造所に併設するビアレストランも設け、客席は多くなっていった。

 初期投資には銀行借り入れなどで2億5000万円を投じる。家業の方は、家族を中心にあわせて約10人が働き、それでも年間売上高は1億円に満たなかったのに。

 話題性もあり、好スタートを切る。しかし、好調は最初だけだった。クラフトビール事業は、失速に歯止めがかからなくなっていく。他の参入社の多くと同じように。ブームは、風のように素早く去っていってしまう。

 餅屋の長期に安定した環境から、明日が読めないジェットコースターのような転落へ。

 参入直前には結婚をする。新妻は安心できる生活を望み、400年以上続く老舗餅屋に嫁いできた。なのに、現実はまるで違ってしまう。

 鈴木は無給、そして無休で働き続ける。事業に従事する妻の給料は月8万円。年間96万円が、世帯収入のすべてとなる。鈴木は床屋にも行けず、彼の散髪は妻の役割になる。商談で上京するときは、新幹線ではなく高速バスを利用。カプセルホテルよりも安価な、一泊2500円の簡易旅館が定宿となる。

 「そもそも、ビールも飲食も、僕には経験がなかった。クラフトビール事業に軽い気持ちで入ったのも事実」

 どんな人でも追い詰められるケースはよくある。困難と向き合い、どう乗り越えていったのか。

 「それでも、空手部で鍛えた根性で何とかなるという気持ちは、持ち続けてました」

後編に続く)

  
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