「目標は世界一のビールをつくること。この目標を最短距離で達成するするためには、どうすればいいのか。そうだ、自分が世界一を選ぶ側の人間になったら、世界大会で優勝できる」
1997年4月からクラフトビール「伊勢角屋麦酒」を展開する、有限会社二軒茶屋餅角屋本店(にけんぢゃやもちかどやほんてん=三重県伊勢市)の鈴木成宗(なりひろ)社長。客席数が100ものビアレストランも併設しての船出だった。地ビールブームに乗り、確かに8月までは順調だった。が、9月になると客足は、ぱったりと途絶えてしまう。
そこで、一発逆転を狙って考えたのが、「世界一になるために審査員になる作戦」だった。97年秋には日本地ビール協会主催の講習会に出席。試験(筆記と実技)に通り、審査員資格を取得する。
「勉強したのは一週間ほどでした。大学受験もそうでしたが、短期集中で臨まないと飽きてしまう性格です」
初年度の97年度は50キロリットルを出荷する。しかし、第一次地ビールブームは瞬く間に萎んでいってしまう。鈴木はその原因をやがて突き止める。翌98年、名古屋国税局の勉強会の場でだった。供された地ビールは中京地域で生産されているものばかり。みなコップに注がれていて、ブランドはわからなかった。だが、審査員資格を取得していた鈴木は衝撃を受ける。
「半数は、お客様に出してはいけない製品でした。何も知らない消費者が飲んだら、地ビールはまずいと思ってしまう」
2001年はアサヒビールがキリンビールを下して、1953年以来48年ぶりにビール業界の首位を奪還した年として知られる。だが、この頃には「地ビールは高くてまずい」という評判が定着してしまう。
鈴木は、ペールエール、ヴァイチェン、スタウトをつくっていた。使用した酵母は、アメリカンエール1056というクラフトビール界では代表的なもの。
こだわりのモノづくりには自信を持っていた。だが、出荷量は37キロリットルまで落ちてしまう。国が定めた最低生産量の年60キロリットルを割っていたのだ。
「伊勢角屋麦酒の鈴木さんは、良質なビールをつくるのに、商売が下手だ」などとも、業界のなかで言われた。
一方で、伊勢角屋麦酒は03年、オーストラリアの世界大会で金賞を受賞する。品質が高く評価され、計画通り世界一を達成した。旅費を工面できず、授賞式には出席できなかったものの、伊勢市役所庁舎で記者会見し地元紙で大きく報じられる。だが、売り上げが好転することはなかった。
文学や音楽の世界でも、賞を取ったのに本やレコードが売れないことはある。だが、クラフトビールでは、賞の存在を含めても一般消費者からの関心そのものがほとんどなくなっていたのだ。
プロダクトアウトからマーケットインへ
事業は迷走を続け、前編に記した通り鈴木の散髪を妻が担うなど、生活は困窮していく。「入金が今日なければ、もう終わってしまう…」。こんな思いを繰り返す。小さな子供が3人いた。妻は言った。「万が一の時には、私はパートに出てレジ打ちをして稼ぐ」、と。
鈴木はいま、しみじみ言う。「よくついてきてくれた」
「最悪を招いても、僕一人だったなら、何とかなった。アパートを借りて塾でもやれば、再出発はできる。しかし、家族がいて、社員もいた。事業を投げてしまうような無責任なことはできなかったのです」
ビールとレストランとで6人の社員がいて、そのほかにパートが20人ほどいた。社員やパートの背後にはその家族もいた。
本当に追いつめられていく。明日が見えないことが、何よりの重圧となる。
浮上する切っ掛けになったのは、”外部”だった。熊本で有機野菜のレストランなどを展開する経営者が、伊勢まで経営指導に赴いてくれたのだ。このとき、鈴木は13時間にわたり、叱責を受け続ける。「空き缶を捨ててない」「引き出しの中がゴチャゴチャ」…。
藁をも掴むような思いで、叱責を鈴木は素直に心に刻んでいく。ポイントは、経営者との13時間により、鈴木自身が気づきを得たことだったろう。
「良いものをつくれば、必ず売れる」と頑なに信じていた鈴木。世界大会で金賞も取った。なのに、思うように売れない。「どうしてだ…」。そんな内向きに同じ回路をグルグルまわる考えが、それまでなかった発想へと切り替わったのだ。
具体的には04年、観光客向けの土産ビールを委託製造に切りかえる。飲みやすく、価格を抑えられた。パッケージを重い瓶から缶に変え、従来のこだわりのクラフトビールとブランドをわける。新型コロナウイルス前の伊勢を訪れる観光客は年間850万人。土産ビールに求めるのは、専門家が唸る世界一のビールではなく、伊勢を訪れたことの記念となるビールだった。ここに、鈴木は気付いたのだった。
プロダクトアウトからマーケットインへ。この考えはすべてではないものの、伊勢角屋麦酒のケースでは小さな気づきと切っ掛けが、事業を変える。新しい土産向けビールは飛ぶように売れ出す。