2024年11月23日(土)

Wedge REPORT

2020年12月4日

楽天、フェイスブックと物づくりの「融合」

 塩谷は1980年に三重県桑名市で生まれだが、子供の頃に一家は東京に引っ越す。中央大学総合政策学部を02年に卒業。同学部は帰国子女や外国人留学生が多く、IT(情報技術)や外国語を中心的に学ぶ。

 01年の就職戦線は"就職氷河期”の最後の方に当たったが、級友の多くはニーズの高かったITエンジニアとして大手企業に就職できた。

 それでも塩谷は、「大きい会社は、きっとつまらない。むしろ中小で責任を持てる仕事をして経験を積み、いつかは起業したい」との思いから中小のシステム会社に就職。同じ業界内で何度か転職をするが、職務はシステムやネットサービスの開発といったITエンジニア職で一貫する。

 08年には大手の楽天に入社。広告プラットフォームやビッグデータ系のシステムプロデュースに従事していく。

 転機は12年10月、シンガポールに転勤したことで訪れる。アジアヘッドクォーターおよび海外開発チームを立ち上げていくのだが、現地でMOON-Xの共同経営者となる長谷川と出会うからだ。

 長谷川は1977年生まれ。京都大学経済学部を卒業し、2000年に東京海上に入社。2年後にP&Gに転職。パンパースやジレット、ブラウンなどのマーケ・マネジメントを統括する。そして12年、マーケティングの"プロ”として楽天に転職し、上級執行役員としてシンガポールをはじめ世界17カ国と国内のマーケティングを担当する。

 当初、シンガポールオフィスは6人ほどの陣容だった。開発とマーケなので、部署は異なるものの、「こぢんまりとした職場の友人として出会いました。関係もフラットでした」(塩谷)。

 塩谷はその後、3年間でシンガポールを中心に100人規模での開発体制を構築していく。16年には楽天を退社し、製造業向けに特化したサーチエンジンやクラウドサービスを提供するアペルザを3人で共同創業しCTOに就く。アペルザは、B to B(企業と企業)のビジネスモデルだった。

 一方の長谷川は15年に楽天を辞め米フェイスブックの日本法人であるファイスブック・ジャパンの代表取締役に就任する。在任中にインスタグラムをMAU(月当たりのアクティブユーザー数)810万から3300万に拡大させるなど実績を残す。

 それでも起業を目指していた長谷川は、ビジネスプランを練っていて、それがP&G時代に実感した人々の生活を豊かにする「モノづくり」と、楽天およびフェイスブックで経験したデジタル上での購買やプラットフォームを活用した情報発信などの「テクノロジー」とを「融合」するビジネスモデルだった。

 ECやSNSはD2Cを具現化させていく手段であり、そこに商材としてのクラフトビールをはめ込んだ形だ。

 ではなぜ、クラフトビールかと言えば、アメリカ西海岸に出張した折、バドワイザーなど大手ブランドにはない、新鮮で手づくりのおいしさに触れたのと、現地でのクラフトビールの成長性を目の当たりにしたためだった。

 こうして前述の通り、19年2月に旧知の塩谷を共同創業者として、「一緒に立たないか」と誘う。

 「長谷川はこの時、本気で私を誘いました。人が本気になったとき、受ける側は本気で応えなければならないのです」と塩谷は話す。

 塩谷も長谷川も、第二次団塊世代であり、失われた世代に属する。それでも、2人とも起業への意志が強烈という点では共通する。また、偶然だが二人の父親はともに銀行員。サラリーマンの中でも特にお堅い仕事に就いていた。ただし、塩谷の祖父の一人は経営者だったそうだ。

 それにしても、楽天やファイスブック、あるいは自分たちで起業した会社に職を得ながら、やりたい起業があるとはいえ簡単に辞してしまうのはリスキーではないのか。

 同世代には、派遣やアルバイトなど不安定な非正規雇用をずっと続けている人は少なくない。個人的な話で恐縮だが、筆者は34歳の時に勤務先の新聞社(東京タイムズ社)が経営破たんし失業を経験した。人や仕事との新しい出会いがあるなど刺激的な面はあったものの、いきなり収入が途絶えてしまうなど厳しいことは多かった。

 この点を塩谷は言う。

 「リスクはそれほどありません。起業に失敗しても死ぬわけではないから。自分が成長しないまま、大きな会社にいる方が、個人のリスクはよっぽど大きい。なぜなら、大企業でも破たんしたり、買収されるケースは多いから。勤務先が買収された後に解体され、個人がリストラされることもあります。

 なので、いつも自分の価値を高めていかなければなりません。高められない会社にいても、実は意味はないのです」

 いずれにせよ、塩谷が技術の、長谷川がマーケティングの、それぞれ"プロ”として合流していく。


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