野村ヤクルト
そこへ、野村克也監督率いるヤクルトが、にわかに台頭してきたのだ。そのヤクルトが初めて西武と日本シリーズで対決することになった92年、野村監督がこんなことを話していたのを、私は覚えている。
「森は(巨人の正捕手だった)現役時代から、コーチ、監督としても、日本シリーズでずっと勝ち続けとる。一度も負けたことがない。そういう人間はな、実は内心で負けることに大変な恐怖心を抱いとるものなんや。
だから、采配を振るにも、思い切った冒険ができない。とにかく堅実に攻めて、確実に勝ちにいこうとする。
その点、こっちは負けてもともとや。失敗は覚悟の上で、何でもできる。そこに、勝機が出てくる」
結果、ヤクルトは3勝4敗で惜敗。それでも、第7戦終盤は西武・石井丈裕、ヤクルト・岡林洋一の壮絶な投手戦となって、西武をあと一歩のところまで追い詰めた。広沢克実、古田敦也、飯田哲也ら当時の主力選手は「力では決して西武にも引けを取らない」「もう一度やれば必ず勝てる」と自信を深めている。
そして、野村監督自身、この惜敗を大きなきっかけとして、翌93年の日本一につながる「戦略」を考案した。いまでは常識となっている、三塁走者の「ギャンブルスタート」である。
92年の第7戦、1-1の同点だった七回1死満塁の場面。三塁走者の広沢が、二ゴロでスタートを切るのが遅れ、本塁で封殺されてしまった。広沢は打球が直接捕球されるのではと考え、躊躇せざるを得なかったのだ。
そこで、こういうケースで打球を直接捕球され、打者と三塁走者が併殺になったら仕方がない。リスク覚悟、得点重視で、三塁走者は打者が打ったら、即座に一か八かのギャンブルスタートを切ろう、と野村監督は考えた。
翌93年、野村監督はキャンプから西武との日本シリーズ再戦を想定し、ギャンブルスタートの練習を繰り返した。この年のシリーズ第7戦で、見事にこの努力、執念、創意工夫が実る。
3-2と1点リードの八回1死三塁。広沢の遊ゴロで、三走の古田が迷わずギャンブルスタート。首尾よくホームインして、日本一を手繰り寄せるダメ押しの1点を取った。
ただ、このときの野村監督の指示は「内野ゴロならストップ」。三塁コーチの大橋穣にそう聞かされた古田は、キャンプからの練習を無駄にしたくないと、「聞かなかったことにします」と大橋に答えて本塁へ突っ込んだという。あの名将にして、この名捕手ありか。
日本シリーズという大舞台は、このようにして弱者が強者を食い、名勝負の中から新たな作戦を生み出し、野球というスポーツそのものを進化させていくものだと思う。巨人・原監督はセ・リーグにもDH制度を導入するべきだなどと主張する前に、ソフトバンクを倒すために自分がどれほど知恵と死力を振り絞ったのか、もう一度じっくり反省と検証をしてみたほうがいい。
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