どれだけ調査し、どれだけ根拠となるデータがあるのかも不確かな印象論を、「弱者のため」「権力を正す」というポジションにいることをたてに垂れ流す。そこにある被害や悲劇を過大に見せた方が自らの立場を肯定できるから「都合がいい部分」をつぎはぎするのでしょうが、結果的にそれは「弱者」をさらに抑圧し、「権力」にはパッシング(無視)されて終わる。“話が大盛り”どころか丼ぶりからこぼれて汚くなって周りは引いているのに、「これでいいんだ」と開き直る。「いやいや、ちゃんと丼ぶりの中に戻しましょうよ」と指摘すれば逆ギレという始末。
――先日もSightでの発言について、Twitter上で山口二郎氏のコメントがありましたね。(注:開沼氏のSightでのインタビュー記事について「脱原発が盛り上がるのは原発のない地域だけという主張は、現場を知り尽くす彼ならではの指摘。しかし、これは 単に地元と消費地を分断する分割統治の現状を追認するだけではないか。分割統治の枠組み自体を変える政治的争点設定が必要になる。」と2012年10月10日10:58にツイート)
開沼氏:一面的な切り取り方をするわけではない丁寧なコメントとは思いました。ですが、「原発立地地域と消費地の分断を認めている」とか「枠組みを変える争点を」とか上から断言してしまえば、なんとなく批判しているように見えるのか知りませんが、全くの「的はずれな因縁」でしかありません。
ここ一年半、私は常に「原発立地地域と消費地、あるいは被災地とその外の分断をいかにつなぎ合わせるか」を主眼に提言も、実践もしてきました。それを知らないのならば知らないでいいのですが、では伺いたい。ご自身は「分断を埋める」ために何やってきたんですかと。福島に被災地に、あるいは日本中にある原発立地地域に何度行きましたか、何人のそこにいる方々と言葉を交わしましたか、槍玉に挙げるような議員・役人、立場の違う人にも自分の言葉を伝える努力をしましたかと。
これは何も山口さんに対してだけではないんですが、あなたは何と「闘って」いるのか、と。自分と似通ったイデオロギーもっている仲間同士の「内輪受け」する言葉を吐き続け、Twitterでリツイートやフォロワーを増やせば「闘う」ことになるのなら、それは私の「闘う」の定義とはだいぶ違います。
『フクシマの正義』の趣旨とも関わるのであえて申せば、震災後の原発や福島にまつわる問題の語り手、拙著の中で使った言葉に沿うなら「「フクシマの正義」を語る・騙る言説」の中に、自分がどのポジションからその発言をしているのかあまりに無自覚すぎるものが少なからず混じっている。とりあえず、上から体制批判して反体制らしいことを言い、社会運動を礼賛して「善意に溢れた正義の味方、かつ社会変革の理論家ポジションをとっておけば、知識人・言論人の仕事は終わり」のようなやり方は、もはや政治家、行政官、ビジネスパーソン、その他諸々の現場を知っている実務家には通用しない。