こんなことは、別に今更改めて言うまでもなく昔から手を変え品を変え主張され続けてきたことだけれど、改めて申し上げます。
――以前、橋下徹大阪市長にも批判されていましたね。
開沼氏:その件について具体的にとかく申し上げることはありませんが、「学者先生が言っていることってやっぱり机上の空論なんだ」と思われるような仕事ばかりやっていても仕方ないとは思います。もちろん現場からあえて離れて、それを相対化する議論が必要であることは認めますが。
どちらが「上から目線をとれているか」のポジション争いをしていても仕方ない。今欠けているのは「徹底した下から目線」でしかない。
――「下から目線」ですか?
開沼氏:現実を直視せず外から・上から理念・理想ばかりを唱え、具体的には行動せず、他に問題が見つかればそちらに絶えず食いついていく。脱原発言ってみました、反TPP言ってました、増税反対論唱えてみました、オスプレイに文句言ってみました、尖閣問題で「冷静な議論」をしてみました……。もちろん各々の主張自体には一定の説得性はあるのでしょうが、ただその時々の時勢に応じて「上から目線」で逆張りしていく作業を続けていても「それで、何が変わったんですか」というフィードバックをしていかなければならない。そうしないと、どの問題も一つも「変えられるべき」とされることは解決しない。
それならばどうするか。「徹底した下から目線」を実現すべきです。ひとつは、想像でも理屈でもない、「現実」を見ること。そのためには手足をまわす。もうひとつは、歴史を掘り返すことです。そのためにこそ頭をまわす。
『「フクシマ」論』で貫いた方針ですし、震災後もその方針は変えていません。『「フクシマ」論』を出版したあと、さまざまな感想を頂き、また、色々な立場の方との議論の場に参加させてもらいました。少なくとも現状までは、私がかねてから感じていた問題意識は震災以前と何も変わっていない。手足も頭も使ってないからこそ、リベラルにせよ、それに反する立場にせよ同じように皮相的な「綺麗事の議論」をし続け、その結果、変えるべき状況を温存する、次の盛り上がるネタが出てきたらそちらに目を移して忘れてしまうという構図が出来上がってしまっている。
――『フクシマの正義』の中ではその「綺麗事」の議論の中で変わらない問題の具体的な例として沖縄の基地問題や八ッ場ダムの問題にもふれながら、その最たる例が原発問題であったと書かれていますね。
開沼氏:そうですね。「震災をキッカケに何かが変わった」と大騒ぎしたがる人がいる。しかし、「変わった」という言葉の定義にもよりますが、大きな構造としては同じような「変えるべき問題を温存している状況」が続いている。ただ、この状況自体が新しいことだとは思わないし、悲観しているわけでもない。一時的にせよ、多くの人をとりこんだ社会問題において、理念や理想が先走ることは往々にしてあることです。