2024年7月22日(月)

オトナの教養 週末の一冊

2012年10月19日

――『フクシマの正義』の後書きでは、その正義の背景に「支配するまなざし」がある、とあります。この「支配するまなざし」というのは、例えば、よく理解していないにもかかわらず、原発なら「福島はこうだ」「原発はこうだ」と、あるいはネット右翼なら「在日はこうだ」「韓国・中国はこうだ」と、維新の会なら「公務員はこうだ」「部落はこうだ」と、どんな立場でもまとめ込もうとすることなのかもしれません。しかし、なぜそのような「支配するまなざし」が生まれるのでしょうか?

開沼氏:その背景には、現代社会における理解不可能性・不可視性の高まりがあります。「その問題」に対して実際は支配または把握出来ていないにもかかわらず、あたかも「自分が理解し把握している」と思い込みたい欲望が高まっている。「見えない化け物は恐ろしい」わけですね。そして、「見えない化け物」を直接把握しようとせずに、無理やり「支配するまなざし」を向ける。きちんと見れば意外と大したものなのかもしれないのにもかかわらず見ようとしない。だからこそ意見がすれ違いつづける。

――ダイヤモンド・オンラインで連載している「闇の中の社会学 「あってはならぬもの」が漂白される時代に」でも同様の問題意識が垣間見えますね。

開沼氏:そうですね。その点では、例えば、社会のあらゆる局面で過剰な規制が進んでいる問題について『踊れない国、日本――風営法問題と過剰規制される社会』(河出書房新社)の私の語り下ろしたパートの中でも触れています。

 だから「フクシマの正義」も「支配するまなざし」も、原発の話、福島の話に限ったことではないんです。むしろ、日本社会に一般的に、普遍的に存在する構造について述べているものです。

――過剰規制の背景に「画一的な社会を求める」状況があるとも述べられていますね。

開沼氏:たとえば、クラブのようないかがわしい空間は自分たちの街からは排除したい、綺麗でオシャレな街に住みたい、あるいは、安全な原発のない暮らしをしたい、「外国人」はじめ理解しきれない他者を自らの空間から排除したい、分かりやすい言葉と実行力をもった政治家・行政機構に思いを託したい……。これらの考えはどれもそれぞれにとっての「正しさ」の感覚としては分かりやすい。しかし、その「正しさ」の裏側にある画一的な社会を求める志向を相対化する必要がある。それによるメリット、デメリットをもう一度考えていかなければらない。

――開沼さんは震災前から一貫して原発問題に関しては推進か、反対かの議論をすることにはあまり積極的ではありません。原発に反対か賛成かという国策のレベルよりも、立地自治体などのローカルな「正義のあり方」を考えることが大切であると。

開沼氏:たまたま一番分かりやすい事例として原発立地自治体の話をここ1年の議論では扱うことが多かったのですが、別に原発に限った話ではありません。もっと普遍的で抽象的な話として、ローカルなコミュニティの次元に落としこんで正義のあり方を考える必要がある。そうしなければその「あなたが自明だと思いこんでいる「正義」」はいつまで経っても実現しない。

 今求められるのは、「多局的な正義」があるという認識を持ち、社会に正義が一枚岩に存在しているというようなある種の純潔思想を捨てることです。自分の知らないところにさまざまな立場の、さまざまなローカルな正義がある。自分の正義だけを信じるだけではなく、ローカルに存在する他者の正義に敬意を払わなければなりません。さもなくば、皆が「おいしくない」結果が待っています。


開沼博(かいぬま・ひろし)
福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。東京大学大学院学際情報学府博士課程。専門は社会学。9月12日に、『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎、1890円)を発売。朝日・読売・日経の各紙をはじめ随所で話題に。その他の著書に、『「フクシマ」論――原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)、前福島県知事・佐藤栄佐久氏との対話『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』、山下祐介氏との編著『「原発避難論」――避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』(明石書店)などがある。


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