2022年12月10日(土)

WEDGE REPORT

2021年5月25日

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伊藤 融 (いとう・とおる)

防衛大学校人文社会科学群国際関係学科教授

1999年中央大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程後期単位取得退学。2021年広島大学で博士(学術)。在インド日本国大使館専門調査員、島根大学法文学部准教授などを経て現職。著書に『新興大国インドの行動原理』(慶應義塾大学出版会)など。

インドを見透かす中国

 中国からの軍事的攻勢が激しく、脅威を感じているのならばクアッドとの軍事的連携をもっと強化し、同盟を締結すればよいではないか、と思うかもしれない。しかしそこには第一にインドの自主独立外交への強いこだわりがある。

 現政権は冷戦期の「非同盟」概念自体は使わないとはいえ、モディ首相自身が2018年のアジア安全保障会議(シャングリラ会合)で言及した「戦略的自律性」を重視する考えに変わりはない。特定の大国、特に米国と関係を深めすぎれば、自国の外交・安全保障政策が拘束されてしまいかねない。1970年代にソ連との関係が深まった結果、アフガニスタン問題への発言権を失った反省もある。

 さらに第二には、クアッドは海洋に基本的関心があるのであって、インドが抱える中国からの陸上の脅威に対する軍事的処方箋にはならないとの現実認識がある。メノン前国家安全保障顧問も指摘するように、そもそもインドが関わる陸上での戦闘には米国も巻き込まれたくないであろう。日豪も然りである。むしろクアッドのなかで唯一中国と陸上国境を接する国として、その脅威が現実的であるからこそ、より慎重な対応が必要だと考えられているのである。

 インドにとって苦しいのは、そうした自らの思考様式を中国側に見透かされかけている点である。しかも中国はクアッドが「アジア版北大西洋条約機構(NATO)」になることはないだろうと楽観している節もある。軍事・戦略問題で影響力のある周波元人民解放軍大佐は、クアッドを軍事同盟のようなものにすることにインドが同意するはずはないとの自信を示した。ここにインドの深いジレンマがある。

 今回のクアッド首脳会談の共同声明、「クアッドの精神」では、民主的価値の共有が謳われるとともに、自由で開かれ、ルールに基づく秩序、法の支配、航行および上空飛行の自由など、これまでの外相会談などでも各国が各々言及してきた文言は盛り込まれている。しかしバイデン政権が厳しく批判する香港や新疆ウイグル自治区での人権侵害には触れられず、ミャンマー情勢についても民主主義回復の必要性を主張するだけで、軍に対する非難や制裁を支持する表現はいっさい含まれなかった。

 ここもやはり、インドの意向に配慮したものと思われる。モディ政権は特に2019年の第二期政権発足以降、そのヒンドゥー・ナショナリズム路線を鮮明にし、カシミールの自治権撤廃や市民権法改正などを相次いで断行した。ムスリムへの弾圧と排除、指導者の拘束、通信規制は深刻なものになりつつあり、米国は議会や政府のさまざまな報告書で強い懸念を示している。またインドはミャンマーについても、対中戦略、また隣接するインド北東部の治安と経済発展を考えれば、米国の制裁には同意せず、その戦略的関係を維持したいと考えている。

 しかしこうしたインドの立場は、本質的にバイデン政権の方針と相容れないものである。特にハリス副大統領はインド系ながら、選挙戦中からカシミール問題や市民権法に関してモディ政権の政策を公然と批判してきた。トランプ政権は大統領自身が人権問題には総じて無関心であったがゆえに、こうした問題が印米関係の阻害要因となることはなかった。しかしバイデン政権がモディ政権の人権侵害行為を「インドの内政問題」として、今後も目を瞑りつづけるという保証はない。

壁を乗り越えられるか

 以上見てきたようにクアッドの強化には、インドの戦略的自律性へのこだわりや人権問題など、さまざまなハードルが立ち塞がっている。だが「自由で開かれたインド太平洋」において、インドは欠かすことのできないピースであり、インドとの関係強化を放棄する選択肢はない。

 たとえばインド北東部へのインフラ投資は、インドと東南アジア諸国連合(ASEAN)との連結性(コネクティヴィティ)を向上させるものであり、中国に依存しないサプライチェーンの構築に欠かせない。さらに人民解放軍の挑発を受けるインド軍にとっても、国境地域への迅速な軍事動員に役立つだろう。日本は17年から「日印北東部開発調整フォーラム」を発足させているが、協力関係のさらなる発展が望まれる。

 またインド洋沿岸国への援助は「一帯一路」への対抗上重要であるが、各国はインドの野心を警戒している節がある。スリランカなど、親印か親中かがそのまま国内政治の構図になっている国もある。その点、「色」のない日本が前面に立ち、インドと協同すれば、被援助国の政治に左右されず効果的な関与を続けることができよう。

 官民のインドへの投資や協力などを通じて、同盟化は困難でも味方に引き入れることは、インドだけのためならず日本のため、そして中長期的にはこの地域の平和と安定をもたらす礎になるだろう。クアッドに不安要素が多い今こそが、日本にとっての正念場だ。

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■押し寄せる中国の脅威  危機は海からやってくる
Introduction  「アジアの地中海」が中国の海洋進出を読み解くカギ
Part 1         台湾は日米と共に民主主義の礎を築く        
Part 2       海警法施行は通過点に過ぎない  中国の真の狙いを見抜け  
Column    「北斗」利用で脅威増す海上民兵
Part 3       台湾統一  中国は本気  だから日本よ、目を覚ませ! 
Part 4     〖座談会〗 最も危険な台湾と尖閣  準備なき危機管理では戦えない
Part 5       インド太平洋重視の欧州  日本は受け身やめ積極関与を
Part 6       南シナ海で対立するフィリピン  対中・対米観は複雑
Part 7         中国の狙うマラッカ海峡進出  その野心に対抗する術を持て

  
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◆Wedge2021年6月号より

 

 

 

 

 

 

 

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