2022年12月4日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年8月27日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

 敵国だろうがなんだろうが、品物を売った利益の内のいくらかは税として商人から織田家の懐に納められるわけだから、信長としては「ブランド製品しか勝たん!」となるのも当然なのだ。

 彼は天正元年(1573年)ごろから、職人などの「天下一」称号を規制して自分が認めた者にしか許さないとする政策を打ち出したが、これも自分のブランド保護政策の成功に自信を持って自信があらゆるブランドの権威の源泉になろうと考えたものだろう。

信長が強く推し進めた交通インフラ整備

 ついでだから美濃焼についても少し触れておこうか。それには少し話がわき道にそれるような感じになるのだが、そんなことはないのでためしにお聞きください。

 前回「産業と財政基盤の知多半島を今川義元から守った信長」で、信長が天正2年(1574年)に瀬戸焼を作れるのは瀬戸の窯だけ、と規定したことを紹介したが、この年彼はこんな命令も発している。

「領国内の道路を普請しろ!」

 これにもとづいて3間(けん)半(約6.36㍍)の本街道、2間半(約4.54㍍)弱の脇街道、1間(約1.81㍍)の在所道と3種類の道路が築造された。今風に言うと約6㍍の幅を持つハイウェイ、4㍍余りの一般道、2㍍弱の生活道路、ともいうべき道路網が尾張、北伊勢、美濃、近江から京、さらには大和方面へもドドーンと出現したことになる。

 どうですか、わき道だけでなく、メイン道路の話もあったでしょう!

 日本の主要幹線道路といえば、古代以来の「駅路」と呼ばれる道路網がそれにあたるが、その代表的な存在である東海道の幅はかつて6㍍以上だったという。それが、長い歴史を経る内にメンテナンスされることもなくなり、樹木の繁茂や路肩の崩落などによって信長登場の少し前の尾張ではわずかに2㍍ほどにまで狭まっていたという。

 信長はこれを一気に復活させ、その他の主要道路も同じ幅を持たせてハイウェイとそれに準じる一般道のネットワークを創り出したのだから、これはまさに交通インフラ革命。

 2㍍幅の道路なら人が対面で行き違うことができる。片道1車線、いや1人線だ。現代の成人男性の身幅でMサイズが50㌢ぐらいだから、荷物を持っていても余裕だ。戦時なら道をいっぱいに使ってフルに武装した2列縦隊の兵士が進行可能ということになる。

 だが、これが60㌔ほどもある四斗俵を左右にくくりつけられ馬喰に曳かれた荷駄馬となるとどうだろうか。当時の日本馬の身幅は65㌢程度で、江戸時代の伝馬は1頭が背負う荷物は112.5㌔までと定められていた。これに近い直径45㌢の米俵2つが加わると、1㍍半。道路の4分の3を占めてしまうから、駄馬や荷車が行き違えばどちらかが脇によけなければならない理屈だ。

 塵も積もれば山となる。これがあちらでもこちらでも発生すればロスタイムが増え、物流が渋滞する。

 信長のインフラ革命は軍事面にも大いに貢献したが、ロジスティックスの問題を一気に解決してヒトとモノの移動を活発化させ商業を発展させた。

 しかも信長の凄いところはすでに桶狭間の戦いの頃には尾張の内で30㌔に及ぶ4㍍幅の道路で岩倉や犬山などを連絡させていた、というところ。道路の重要性を20年前には認識していて、天正2年(1574年)になってから一気にそれを広範囲に適用するとは!

6キロの峠でも整備費用は2億2000万円

 とはいうものの、だ。道路の整備なんて、金食い虫そのもの。造るのにも膨大な資金が要る。

 ひとつ挙げてみようか。このとき信長が近江の摺針峠(現在の滋賀県彦根市の内)でおこなった大工事では、2万人以上の作業員が投入されて峠を幅5㍍半、深さ1㍍弱に掘り下げ、邪魔になる岩は火で熱して割り、道を通している(奈良興福寺東金堂の高僧の日記「東金堂万日記」。『松雲公採集遺編類纂記録』所収)。

 6㌔ほどある峠道を掘削するのにどれぐらい時間がかかるか?また、掘削した土・石は峠とふもとの道の高低差を少なくするために田を埋め立てるのに使われたが、その造成作業にも相当な期間が費やされただろう。

 仮に1カ月で完成にこぎつけたとしてみよう。作業員の日当は1日米8合、2万人が1カ月従事すれば、4800石。現在の価格で2億2000万円近くが経費として計上される。天候が悪ければ工事は順延となるから、実際にはもっと必要だろう。

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