久尻-久々利間は8㌔ほどあるから、景豊の負担は兼見より大きかった。お公家さんより信長肝煎りの陶工の方が財力があったということになる。
仮に、兼見が600間と他の担当者の工区の手伝い分50間(90.9㍍)を100人の作業員と10日の日数で仕上げたとすれば、その経費は米8石(36万円)。これをそのまま景豊の工事に適用すれば、経費は200万円程度と導き出せる。だけど、本当はもっとかかっただろうなぁ。
信長のWIN-WINマネー術
かような次第で、信長は道路建設にその場所その場所の領主や有力者のマネーを投入させた。これが、短期間でハイウェイネットワークを構築できた成功のタネだったのだ。
メンテナンスについても地元のボランティア(強制だけどね)が基本だった。
例えば景豊に対しては「お主の久々利と、景光の久尻の間を良い道で結べば、資材の融通や製品の搬出なども今よりスムーズにおこなえるがや。その分で増えた儲けは、税金を手加減したるで」とでも信長は言ったのだろう。
褒美が三重の金盃だけでも、実益は景豊にも充分あったのだ。吉田兼見にしたところで、領地がある場所に便利な道路が通れば行政や年貢の輸送コストも下がる。負担はさせるが見返りも与える、WIN-WINの関係こそが信長流のやり方というわけで、志野焼も、久々利や久尻にかけて算出される白土が原料として窯に運び込まれるのも、また焼き上がったものを販売する際にも、この道が大いに活用されたことだろう。
経済的成功術系書籍の元祖ともいえるジョージ・サミュエル・クレイソンは「決断すれば道が開かれる」と説いたが、信長の決断は文字どおり道路を造り、ブランドを生んだのだ。
【参考文献】
『日本歴史地名大系21 岐阜県の地名』(平凡社)
『信長公記』(角川文庫)
『増訂織田信長文書の研究』(奥野高廣、吉川弘文館)
『史跡小谷城跡』(湖北町教育委員会・小谷城址保勝会)
『美濃焼』(奥磯栄麓)
『史料纂集 兼見卿記』(続群書類従完成会)
『日本歴史地名大系21 岐阜県の地名』(平凡社)
『信長公記』(角川文庫)
『増訂織田信長文書の研究』(奥野高廣、吉川弘文館)
『史跡小谷城跡』(湖北町教育委員会・小谷城址保勝会)
『美濃焼』(奥磯栄麓)
『史料纂集 兼見卿記』(続群書類従完成会)