2024年4月23日(火)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年8月27日

 ちなみに、この大工事で旧中山道はそれまで琵琶湖畔にグルリと迂回していたものがショートカットされて12㌔短くなった。人が歩く時間にして3時間。信長の支配圏全体ではどれぐらいの時間短縮が生まれたか、まさにハイウェイだ。

 ともあれ、6㌔の摺針峠でこの出費。これが尾張・美濃・北伊勢・近江・大和と全体でどれぐらいのマネーを必要としたか。想像すると気が遠くなってしまうね。

 それに加えて道路というものはメンテナンス(修理、清掃、街路樹維持)にも出費を強いられる。信長の場合、このハイウェイの両側に排水溝や高さ1㍍の土塁、その上に街路樹を備えさせ、年3回の修築も実施させたから、そのコストもバカにならない。下手すると、織田軍団の合戦費用並みだったのではないだろうか。

ブランド振興策としての道路工事

JR岐阜駅前の織田信長像(マスク着用前)

 さぁここでようやく話が美濃焼に戻ってくるぞ。信長の瀬戸焼ブランド保護政策で紹介した加藤景茂という人物。この景茂には、息子が3人いた。景豊と景貞、景光という。この3人、景豊と景貞は少なくとも6年前には美濃の大平(現在の岐阜県可児市久々利のうち)という土地に移って作陶を開始していたらしい。

 そして景光もまさに信長の道路建設が開始される天正2年(1574年)に、信長じきじきの命を受けて美濃の久尻(現在の岐阜県土岐氏泉町久尻。この頃すでに志野焼という陶器が作られていた)で良質の土を発見して窯を開いている。

 つまり、信長は瀬戸焼ブランドを保護はしたが、同時に美濃での陶器産業についても「瀬戸焼まがいの野良ブランドは許さないが、自分の管理下で志野焼などの美濃焼ブランドを育てていく分については大いに結構!」という方針のもと、景茂の息子たちを用いて振興を図ったのだ。

 それぞれのブランドを自分の目の届くところで奨励し、がっちり名産品に育てていく。それにより信長没後の話ではあるが、景豊の流れは「美濃桃山陶」というブランドを生み、志野焼や織部焼など付加価値の高い茶器を送り出すことになる。

 これは信長の税収アップにもつながるのだが、もうひとつ大きなメリットがあった。それが道路事業だ、と言ったらちょっと飛躍し過ぎかも知れないが、ちょっと説明させていただきたい。

 美濃に移った加藤景豊について、家伝では天正2~3年の道路造成事業の際、信長から久尻-久々利間の道路の普請奉行を命じられ、竣工後には三つ重ねの金盃を拝領したとされている。

 この言い伝えがまんざらでもないのは、京でも公卿の吉田兼見らに京から近江大津を通り北陸へ向かう途中で東山道に接続する「今道」復旧整備工事600間(約1.09㌔)分が割り当てられて兼見が「何度も断ったが聴き入れられず、是非に及ばない」とブーブー不平をたれながらも10日間の工期で請け負った分以上を竣工させている。


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