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Wedge OPINION

2021年9月24日

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筒井清忠 (つつい・きよただ)

帝京大学文学部長

1948年大分市生まれ。帝京大学文学部長・大学院文学研究科長。東京財団政策研究所上席研究員。専門は日本近現代史、歴史社会学。『昭和十年代の陸軍と政治』(岩波書店)、『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館)など著書多数。

 さらに20~30年代にかけて、日本では特に青年インテリを中心にしてマルクス主義が広く普及していたことも重要であった。33年に日本共産党幹部の大転向が起きマルクス主義の社会運動は衰退し始めるが、財閥が存在し大きな社会的格差があった当時、格差是正を求める「平等主義」の考え方は社会に根付き、以後も影響力を発揮することになる。重要なのは、マルクス主義の社会運動が衰退した後も、社会変革を掲げた平等主義は五・一五事件(32年)や二・二六事件(36年)を引き起こした超国家主義運動に引き継がれていったことである。当時の取り締まり当局は「左右紙一重」と言っている。

国外危機の起源、満州問題
国内に浸透する平等主義

 次に国際関係的背景について見ていこう。当時の日本を取り巻く国際情勢の中で最も重要なのは、中国との満州をめぐる対立である。日本が直面した国際的な危機全ての〝起源〟はここにあるとも言えよう。

 日露戦争の結果、中国の遼東半島と南満州鉄道(満鉄)の周辺地域が日本の権益となり、31年時点で、満州には日本人が約23万人暮らしていた。だが、第一次世界大戦後に民族自決権が世界的趨勢になり、中国では当然のように反帝国主義運動が活発化する。日本の満州権益はその標的となり、「日本人は日本に帰れ」とする激しい日本人排撃運動が起きる。

 日本からすれば、満州の権益は当時の国際法で認められた当然の権利である。さらに23万人の在満邦人は、満鉄勤務者やエリート官吏などを除くと大部分が日本に帰る場所などがない人たちだった。重光葵など権益を率先して返還して問題を解決しようとする外交官などもいたが、在満邦人の状況を目の当たりにした関東軍の急進派が31年、ついに満州事変を引き起こすことになる。

 その背景には次のようなこともあった。この時期、満州ではソ連の進出が顕在化していたのである。29年、満州を走る中東鉄道の経営をめぐって中国とソ連との対立が激化し、結局戦争となる。強力な赤軍を前に中国軍は惨敗し、ソ連は権益を確保・拡大した。これが関東軍を非常に刺激した。つまり、「権益は実力で守る」という意識を与えたと同時に、ソ連が満州に大きく進出してきたということで警戒感を非常に高めてしまったのである。

 西の中ソと対立する中で、日本は米英、特に東の米国とも対立していく。ワシントン軍縮条約(22年)とロンドン軍縮条約(30年)により、日本海軍の規模は米英に対し小さく制限され(現在から見れば国力に比し合理的なのだが、特に後者には海軍の強硬派と野党が強力に反対した)、さらに24年には、米国で日本人移民を禁止する差別的な排日移民法が成立した。それらにより世論に根付いた対米不信は、太平洋戦争に突き進むプロセスの中で、ボディーブローのように効いてくることになる。

 とはいえ日本政府は、しばらくは米英との友好関係を重視する姿勢を維持していたのだが、満州事変から日中戦争へと戦争が拡大すると、38年には近衛文麿内閣が「東亜新秩序声明」を出すことになる。これは、日本政府の方針としてアジア重視を第一の外交方針とすることを初めて示したものであり、明治以来の対米英関係重視の外交方針から決別することを意味したものであった。

 どうしてこうなったのか。

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真珠湾攻撃から80年
真珠湾攻撃から80年

80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。
当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。
国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。

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