<「なにしとんかい」
江夏はそう思った。それにはいろいろな思いがこめられている。
「このドタン場に来て、まだ次のピッチャーを用意するんかいうことですね。
そうか、オレはまだ完全に信頼されてるわけじゃないのかと、瞬間、そう思った。
ブルペンが動いた。なんのためにオレはここまでやってきたんや。そう思って、釈然とせんかった。ブルペンが動くとは思っていなかったからね」>(42頁)
古葉監督とすれば、場合によっては延長戦に突入するため、次の投手を準備させる必要がある。そのための手立てだったが、日本球界で抑え投手の地位を確立した孤高の江夏に、監督の思いは伝わらない。わだかまりを残したままの江夏に、近鉄は足を絡めた攻めを仕掛ける。一塁走者の代走吹石徳一が盗塁を決め、一打逆転の舞台を作った。広島ベンチは8番平野光泰を歩かせ、満塁策をとった。
救われた衣笠の一言
近鉄は勝負強い佐々木恭介を代打に送った。3球目、三塁線への鋭い打球がファウルとなって江夏は命拾いをする。その時、衣笠祥雄との印象的なやりとりが出現する。
<その息づまる緊張のなかを、カープの一塁手、衣笠が江夏のところに近づいていったことを記憶にとどめている人は少ない。(略)
「オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな」
江夏がいう。
「あのひとことで救われたいう気持ちだったね。オレと同じように考えてくれる奴がおる。(略)うれしかったし、胸のなかでもやもやっとしとったのがスーッとなくなった。そのひとことが心強かった。集中力がよみがえったいう感じだった」>(50~51頁)
江夏は佐々木を三振に仕留め、冒頭の石渡を打席に迎える。
2球目、江夏が腕を振り下ろそうとした瞬間、スクイズの構えに入ろうと石渡のバットが動くのが見えた。江夏はカーブの握りのまま外角に外し、石渡のバットが空を切った。三塁を飛び出していた藤瀬は三本間に挟まれ、タッチアウト。石渡も三振に倒れ、広島の4年ぶり2度目の日本一が決まった。
石渡はこう振り返る。
<「江夏の投げたあのボール、あれはホントに意識的に外したのか……。信じられんのですよ。フォーク・ボールが偶然スッポ抜けたんじゃないか」>(33頁)
この試合、7回途中から登板した江夏の投球数は41球だったが、9回の1イニングに費やした投球数は21球。その1球1球ごとに「意味」があったことを山際は約4万字の作品に仕上げた。執筆当時、山際は31歳。丹念な取材に裏打ちされた冷静な分析力と、魅力的な文章がファンから支持された。多くの作品を世に出す一方、スポーツキャスターとしても活躍したが、95年、46歳の若さで亡くなった。
「巨人離れ」と「プロ野球ニュース誕生」の中で
『江夏の21球』が生まれた時代背景を考えてみたい。
78年から80年にかけて、プロ野球では大きな地殻変動が起きていた。78年秋のドラフト会議で、会議前日の予備日に巨人が江川卓をドラフト外の選手として契約してしまう「江川事件」が起き、球界の盟主を自任してきた巨人の強引な手法にプロ野球ファンの間から強い批判が集まった。巨人は78年から3年連続で優勝を逃し、80年秋には電撃的な「長嶋茂雄解任」のニュースが流れ、ファンの「巨人離れ」は一層加速した。