オリンピックもパラリンピックも終わった(以下、パラリンピックも含めてオリンピックと書く)。今回の東京オリンピックほど多くの議論を呼んだオリンピックはなかっただろう。しかし、オリンピックについて議論するとき、一番肝心な視点が抜けている。オリンピックはあくまでも「興行」であるということだ。競技種目の数が桁違いに大きいにしてもスポーツ興行であることは間違いない。
興行とは、何か素晴らしいものをお客に見せるか聴かせるかしてお金を取るというものである。興行師は客を集め、料金を取り、出演するスターにお金を払う。ところが、オリンピックの興行師は出演者にお金を払わない。なぜこんなことが可能なのだろうか。それがオリンピックの価値というものだが、その価値の維持がさまざまな矛盾を引き起こす。
オリンピックが持つ「崇高な理念」
普段は高いギャラを取っていても、オリンピックにはギャラなしでも出場したがる選手が多数いる。それはオリンピックが選手と競技の社会的認知度を上げるからだ。
マイナー競技の選手なら、いつもとは違う多様な観客の前で競技の素晴らしさを見せ、多くの人々の関心を集めることができる。メジャースポーツでも、より広い範囲の観客の前でゲームの素晴らしさを見せることができる。それを通じて、企業スポンサーを集め、CM出演のチャンスを拡大することができる。
しかし、オリンピックは興行だから、多額のお金が動く。大会組織委員会が2020年12月に発表した大会経費は、1年延期に伴う会場の再契約や新型コロナウイルス対策を含め総額1兆6440億円となり、このうち東京都が7170億円、国が2210億円負担するとしている。さらに、会計検査院は、間接経費を含めれば国の支出だけで1兆600億円になると試算し、都も関連経費に7766億円かかったとしている。海外の経済誌は全体で巨額の3.1兆円がかかったとしている(『五輪開催の裏の巨額費用 過去20年では東京が最大に』Forbes 2021.7.21)。
そうした大きなお金が動けば、それで利益を得る人もたくさんいる。役員は、表立ってではなくても、名誉や役得や陰でさまざまな所得機会を得ることもできる(少し前までは開催権を巡って賄賂が横行していた)。
一方で、選手も開催を手伝う人々にも多くのボランティアがいる。医師も看護師もボランティアである。コロナ患者を診たがらない医師も、オリンピックのボランティアには集まる。有名選手とお話ししたり、その場所にいたということが金銭以上の価値を生むのだろう。
利益を得る人がいる一方で利益を得られない人がいる。どうやって利益を得られないボランティアを集めるかと言えば、「オリンピックは平和の祭典である」という崇高な理念が持つ力である。オリンピックは、いかなる差別にも反対し、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうという崇高な目的を持ち、これに参加することに価値があるというのである。