栄光は個人のもの
2020東京オリンピックでは、素晴らしい試合を見せてくれた選手たちに、多くの日本人が感動した。オリンピック以前の5月、読売新聞の世論調査によると、「中止する」が59%で、「開催する」は「観客数を制限して」と「観客を入れずに」をあわせても39%だった。ところが、開催後の8月では、開催されてよかったと「思う」は64%になり、「思わない」の28%を大きく上回った。
人々は、純粋にスポーツを楽しみ、日本選手の活躍を喜んだということだろう。ただ、ナショナリズムの発露も政権浮揚効果もなかった。さらに言えば、もっともナショナリズムに欠けたのは開会式の演出ではないかと私は思う。日本の素晴らしいものを見せて、世界を驚かせてやろうという意欲がまったく感じられなかった。
菅義偉首相は、パラリンピックの閉幕を待たずして退陣を決めた(ワクチン接種の加速は菅首相の業績と私は思っている。接種が2カ月早く始まり、感染力の強いデルタ株がなければ菅首相は政権を維持できただろう。その意味で不運だったと私は思う)。
私たちは、オリンピックを国家の栄光とも政権の正当性とも離れて、純粋に競技として楽しめるようになったのではないか。栄光は選手個人のもので、国家のものでもオリンピック委員会のものでもないが、日本選手が活躍すれば嬉しい。これこそが成熟だが、無駄にお金をかける点では、日本は成熟していない。人々は成熟したが、政府や東京都は成熟していなかったということではないか。