2024年2月21日(水)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2022年4月17日

天安門事件直後からもつながる

 ここで時計の針を1989年の天安門事件発生直後に戻してみたい。

 当時、共産党政権は経済発展から取り残され貧しい西南地域(雲南省、貴州省、四川省、重慶市など)の経済社会建設を目指していた。さまざまな構想が提示されたが、最終的に浮上したのが雲南省を橋頭保として国境を南に向かって開け放ち、西南地域をその南に繋がる東南アジア大陸部(ミャンマー、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、シンガポール)と結びつける、国境を越えた広域市場構想であった。

 かくて李鵬首相(当時)が「西南各省は協力し、改革を進め、開放を拡大し、東南アジアへ向かえ」と檄を飛ばし、雲南省の省都・昆明を起点に鉄道、水路、陸路、航空路で東南アジア大陸部をネットワークするプロジェクトが動き出した。

 一方、昆明を起点に重慶、新疆ウイグル自治区、中央アジア、東ヨーロッパを経て西ヨーロッパにまで鉄道を延伸させ、中国を結び目にして東南アジア大陸部とヨーロッパ心臓部を繋げる欧亜大陸橋構想も提示された。90年代初頭に持ち上がったこの構想が40余年の時を経て、すでに現実化し稼働していることを無視するわけにはいかない。

 古くから中国は西南地域を経ることで外の世界と交流を続けてきた。共産党政権は敢えて国境を南に向かって開き、西南地域が過去に担っていた役割を復活・拡大させることで経済社会開発を狙った。その柱として構想されたのが「泛亜鉄路」と称する鉄道網である。   

 泛亜鉄路は昆明に起点にして、(1)西線=ミャンマー(大理⇒マンダレー⇒ネピドー⇒バンコク。支線はネピドー⇒ヤンゴン)経由でバンコクへ。(2)中線=ラオス(ヴィエンチャン)経由でバンコクに繋ぐ。(3)東線=ベトナム(ハノイ⇒ホーチミン)からカンボジア(プノンペン)を経てバンコクに。(4)南線=バンコクからマレー半島を南下し、マレーシア(クアラルンプール)を経てシンガポールに至る。

 ここに見られるように泛亜鉄路は昆明とシンガポールを北と南の起点として、中国の西南地域と東南アジア大陸部との一体化を目指す一方で、さらに進んで泛亜鉄路に欧亜大陸橋を繋げ、シンガポールからロンドンまでを鉄道で結んでしまおうとする。

 荒唐無稽に近い構想とは思えるが、現実的に欧亜大陸橋は動き出しているし、泛亜鉄路(中線)の一部である昆明とヴィエンチャン間(中老昆万鉄路)は昨年末に完成している。

 古くから漢族は新しい生活空間を求め、黄河中流域から南下を繰り返してきた。〝熱帯への進軍〟である。この動きは毛沢東の対外閉鎖策によって小休止していたが、鄧小平が対外開放を掲げることで再び動き出した。中国の動きを天安門事件前後から追ってみるなら、東南アジア大陸部において一帯一路は確実に前進しているのである。

 たしかに一帯一路は習近平政権が見せる対外膨張策であることに違いはないだろうが、やはり歴代政権が東南アジア大陸部で進めてきた野心的な試みの延長上に位置づけるべきだ。一帯一路を短兵急に捉えてはならない。天安門事件前後から〝熱帯への進軍〟を見続けてきた筆者の偽らざる思いだ。

「一気呵成」VS「子ツツリ子ツツリ」

 日清戦争勝利から半年ほどが過ぎた1895(明治28)年10月20日、宮崎滔天(71~1922年)はシャム(タイ)への移民を希望する20人ほどの熊本農民を束ねて神戸を出港する。孫文を援け辛亥革命に奔走する以前である。

 宮崎は暫く滞在したバンコクで接した日本人と華僑の日常を比較し、「一気呵成の業は我人民の得意ならんなれども、此熱帯国にて、急がず、躁がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の気根には中々及ぶ可からず」と記した(「暹羅に於ける支那人」(『宮崎滔天全集』第5巻、平凡社、1971年)。

 「我人民の得意」なる「一気呵成の業」に対するに「急がず、躁がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の気根」との宮崎の指摘は、130年ほどが過ぎた現在でも色褪せたものではない。日本人が慎まなければならないのは、やはり「一気呵成」の判断に日本の進路を委ねてしまうことではないか。

   
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