「福田ドクトリン」から「安倍ドクトリン」までの36年ほどの間、中国は対外姿勢を閉鎖から開放へと衝撃的な形で180度転換させる一方で、ASEAN諸国もまた濃淡の差こそあれ中国の変容に対応すべく外交姿勢を転換させた。
たが「福田ドクトリン」発表以降を振り返るに、80年代末期から90年代初頭に展開されたカンボジア和平交渉に見せた積極姿勢以外、日本のASEAN外交に確固とした成果は認め難い。それというのも、この地域の外交ゲームに中国という強力なプレーヤーが参入してきたにも拘わらず、日本外交は旧態依然たる「福田ドクトリン」――敢えて〝温もりのある外交〟と言っておく――を脱することが出来なかったからに違いない。
メコン流域での開発支援争い
2012年末の第二次政権発足に当たり、安倍首相は5原則(上記)を基本にして日・米・印・豪を結んでの「中国包囲のセキュリティー・ダイヤモンド戦略」の構築を目指す動きもみせた。であればこそ、「安倍ドクトリン」が12年秋の第18回中国共産党全国大会において胡錦濤総書記(当時)が明確に打ち出した「海洋大国建設」のみならず、地域覇権を超えて国際政治ゲームのルールを自らが作るとまで言い始めた中国への牽制を狙っていたことは想像に難くない。つまり対外膨張時代に入った中国に対し、日本は「安倍ドクトリン」をぶつけたことになる。
その後の中国の展開をみると、胡錦濤政権を襲った習近平政権は「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」を掲げ、「一帯一路」をテコにしてユーラシア大陸の全域を海上と陸上で繋げようという大構想をブチあげた。「大風呂敷」との批判を浴びながらも、以後、その実現に向け着々と動いていることは改めて説明するまでもないだろう。
ここで見過ごすことが出来ないのが「安倍ドクトリン」のうちの「3.自由でオープンな、互いに結び合った経済関係の実現」の項目で言及されている「メコンにおける南部回廊の建設など、アジアにおける連結性を高めんとして日本が続けてきた努力と貢献は、いまや、そのみのりを得る時期を迎えています」との主張だ。それというのも「メコンにおける南部回廊」こそが、中国による〝熱帯へ進軍〟のメインルートだからである。
かねてから日本は、メコン流域のミャンマー、ラオス、カンボジアなどの流域諸国の貧困救済のために多くの予算を投入してきた。またアジア開発銀行(ADB)を通じてメコン流域の経済社会開発に投入された多額の援助もまた、その一環と見なすことが出来る。それを導いたのが財務省であり、黒田東彦ADB総裁(現日銀総裁)だった。その〝努力〟の甲斐あってか、21世紀に入って以降、たしかに「そのみのりを得る時期を迎えて」はいた。
だが結果として「そのみのりを得」たのは日本ではなく、中国だったのである。現実を直視するなら、カンボジアにせよラオスにせよ、ましてやミャンマーであっても、それらの国々において急拡大した中国の存在感に比べ、日本のそれが希薄であることは言うまでもないだろう。であるなら、なんのための援助だったのか。
90年代後半だったと記憶するが、財務省で行われたメコン流域開発援助に関する会議に参加し、中国の南進戦略の歴史的経緯を報告したことがある。その際、メコン流域を地政治学的に捉えることも、この地域が経てきた歴史を振り返ることなく、ましてや日本が国家としてメコン流域諸国とどのように向き合うかという基本構想を持たないままに行われる「円の投入」は、ADBという国際機関を介在させるだけに、中国の〝熱帯への進軍〟を正当化するばかりか、却って後押しかねない。結果として日本とメコン流域諸国、ひいてはASEANとの関係にとってマイナスにしかならないと意見を加えた。
すると意外にも財務省側からは、「日中友好の立場から、中国がこの地域における日本の外交努力を無にすることはない」「万に一つ中国を利したとしても、この地域の貧困情況が最終的に改善されるなら、それは日本の政府開発援助の精神に合致している。我が援助外交の成果として前向きに評価できる」との反応が返ってきた。この地域の国際環境の変化に疎すぎると同時に、「福田ドクトリン」の悪しき後遺症と痛感したことを四半世紀程が過ぎた現在でも鮮明に記憶している。