30年ほど前、筆者は読売新聞の防衛担当記者として、北海道で自衛隊の演習を取材した時に驚かされたことがある。それは「訓練では常に、自衛隊が行動する地域に住民はいない」という想定だったからだ。
当時の演習は、旧ソ連軍が北海道に着上陸し、陸海空自衛隊がそれを阻止、撃破するという内容だが、どうしてそんなあり得ないような想定だったかと言えば、日本には有事に住民を避難させる法律がなかったからだ。自衛隊幹部も「法律がなければ何もできない。演習では、住民は避難し終わっているという状況にせざるを得ない」と苦笑いしながら話していたことを覚えている。
しかしその後、1990年代後半から北朝鮮の武装工作員による重要施設を狙った破壊工作や工作船事件、核・ミサイル開発といった脅威が深刻化し、有事法制の一環として2004年6月、「国民保護法」が制定された。しかし国会の法案審議では、当時の社会党や一部の有識者からは「戦争を前提とした法律を作るから戦争になる」という無茶苦茶な反対意見に加え、負傷者の救助は個人の自由意志、強制してはならないといった人権に配慮したかのような意見も横行し、結局、今のような内容となった経緯がある。最初から欠陥だらけの法律だったといっても過言ではない。
しかも同法施行後、05年度から国と自治体による訓練が始まったが、想定は繁華街での爆弾テロや原発など重要施設へのテロ攻撃といった内容ばかり。いずれも地域が限定され、警察や消防を中心とした訓練となるからで、武力攻撃事態を想定した訓練は行われていない。有事を想定した訓練に対する自治体の労働組合の反対がその一因という。
それでも弾道ミサイル攻撃を想定した訓練は、17年3月になって初めて秋田県男鹿市で行われたが、住民らが近くの公民館に避難する内容で、参加者からは「緊張感がなく、これで大丈夫か」といった声が聞かれたほどだった。しかもミサイル攻撃を想定した訓練は、翌18年6月以降、当時の米朝協議への影響を慮って中断してしまった。今年に入って北朝鮮がミサイル発射訓練を頻発させているため、松野博一官房長官は4月15日、弾道ミサイル発射に備えた住民の避難訓練を再開することを明らかにした。当然だろう。
国民を守る場所がない
最大の懸案は避難場所の問題だ。21年4月現在、国民保護法に基づき全国の自治体が指定する避難施設は9万4125カ所に上るが、そのうち地下施設は1278カ所に過ぎない。政府は25年度末までに、鉄筋コンクリートの構造物などで造られた強固な緊急避難施設を増やす方針だ。しかしウクライナでは、キーウなどに比べて地下避難所が少ないとされるマリウポリなどでは、多くの市民が避難していたコンクリート造りの劇場や教会が、ロシア軍の攻撃にさらされたほか、戦闘の長期化に伴って民間人の被害は増大している。
ロシアによる残忍なウクライナ侵攻を目撃した政府、そして私たちが早急に取り組むべきは、日本が直面する脅威と起こり得る有事について認識を共有し、戦争の実相をイメージすることだ。その上で、一度も改正されていない現行の国民保護法を全面的に見直すと同時に、年末に改訂を予定している「国家安全保障戦略」で、国民保護を最重要項目として位置づけ、被害を最小化する具体的な手立てを盛り込む必要がある。
そうした議論を通じて、ひとりでも多くの国民の命を守るために必要な地下施設についても議論し、整備を急ぐ必要がある。中国、北朝鮮、そしてロシアという核兵器を保有し、さまざまなミサイルを開発、配備する軍事強国と対峙する日本が、悠長に構えていられる時間はそう多くは残されていない。
ロシアのウクライナ侵攻は長期戦の様相を呈し始め、ロシア軍による市民の虐殺も明らかになった。日本を含めた世界はロシアとの対峙を覚悟し、経済制裁をいっそう強めつつある。もはや「戦前」には戻れない。安全保障、エネルギー、経済……不可逆の変化と向き合わねばならない。これ以上、戦火を広げないために、世界は、そして日本は何をすべきなのか。
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台湾有事とは日本有事である——。日本は戦後、米国に全てを委ねて安住してきたが、もういい加減、空想的平和主義から決別し、現実味を帯びてきた台湾有事に備えなければならない。
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