活発な娘の姿は眩しかったはずだが、きっと両親には弱視という心配もあったのではないだろうか。だが、娘がやろうとすることに「危ないからやめなさい」と言ったことはなかったそうだ。
また、授業中は教室の一番前の席で、弱視用の単眼鏡を使って黒板を見た。鹿沼にとってはそれが普通のスタイルだから不自由さはなかった。
兄と江の島まで往復70kmサイクリング
こうして小学生までは周囲と何の不自由も、隔たりもなく過ごしていたが、中学生になると状況が変わった。
「体育の授業で球技になるとついていけなくなってしまいましたので、中学、高校と球技の時間だけは別メニューをして過ごしました」
ただ、それは球技に限られていた。逆に言えば、そのほかのことは克服してきたということだ。
ある時、自宅のある町田から江ノ島まで「自転車で行く」という兄について行ったことがあった。往復約70km。当然整備されたサイクリングロードだけではなく、交通量の多い地域も通過しなければならなかったが、鹿沼はものともせずに兄を追った。
小さいころから「工夫すればできるでしょ」と育てられたことによって、出来たことの自信を積み重ねてきた。それが、他人からは挑戦と思えるようなことでも、なんなく壁を乗り越えていく積極性が出来上がっていったのではないかと考えられる。
視覚障害だからと親が先回りして危険を回避するように育てられていれば、また違った鹿沼になっていたかもしれない。
「できないと言うことが悔しかった?」という筆者の質問に「確かにそういうところもあったような~」と控えめに言うが、笑顔の中にも負けず嫌いな性格が見え隠れしている。
高校卒業後、鹿沼は視覚障害と聴覚障害専門の短大に通い理学療法士の資格を取得後、東京都立文京盲学校の専攻科で「あんまマッサージ」の資格を取り、ヘルスキーパーとして数社で社員にマッサージをする業務に携わった。