「コンテンツに上下はない。どのジャンルでも一流のものがある」という趣旨をとなえたのは、作家の井上ひさしである。純文学とか大衆文学とか、なにか上下関係を暗示するような命名とは無縁のところに、コンテンツの力がある、と洞察したものである。
「ビブリア」はラノベとしては、初めてのゴールデン・タイムのドラマ化である。フジの編成と制作の担当者にもまた、井上ひさしのいう、ジャンルにこだわらずによいものはよい、という感覚があったと思う。
原作は第1巻から第3巻まで、短編によって構成されている。ひとつひとつの話はそれぞれ、古書が事件の下敷きとなっている。それは、夏目漱石「漱石全集・新書版」(岩波書店)であり、ロバート・F・ヤング「たんぽぽ娘」(集英社文庫)などである。短編はそれぞれ事件の解決に向かってストーリーが展開していく。それは、シャーロック・ホームズの物語のようである。短編が綴られた先に長編が用意されているのも。
ドラマでそこなわれてしまった原作の魅力
「ビブリア」のドラマ第10回と最終回は2話完結のシリーズで、原作では第4巻の長編「栞子さんと二つの顔」のドラマ化である。
江戸川乱歩の古書の収集家だった資産家が、雪の路上で倒れ死んでいる。その雪のうえに、彼が指で描いた4ケタの数字の「ダイイング・メッセージ」が残される。
資産家は愛人の家に、膨大な乱歩の単行本や小説が掲載された雑誌などのコレクションを残した。さらに、その家の中に備え付けられた金庫のなかに、重要なものを残し、愛人にその金庫を開けるためのヒントを残す。
主人公の栞子と、10年ぶりに姿を現した母親の智恵子はその謎解きを激しく競うのである。金庫のなかに隠されていたものはなにか。それは乱歩の初期の作品の習作原稿らしいことがわかっていく。果たして、金庫のなかの原稿は本物なのだろうか。
原作もドラマのラストシーンもまた、物語が続くことが余韻をもって綴られている。どちらも捨てがたい。どちらかと問われれば、原作のほうではないか、と私はあえて答えるだろう。原作には、栞子と大輔のほのかな恋の予感があるからである。