日本のプロ野球史上初めて実施されたストライキ。「個人事業主」の選手が、一糸乱れぬストを打ち抜けるか、という見方を覆した。野球ファンは、選手会の「身を切る思い」に接し、ストを支持した。
ついに岩が動き出す
労使交渉は22、23日に名古屋に場所を移して継続されることが決まった。スト決行前と後では社会の反応は一変していた。22日の交渉で、選手会側はNPB側の「変化」に気付く。
<交渉は、文言について紛糾した先週とは一変して、新規参入に関して審査委員会の早期設置や公開審査の導入が早くからNPB側から提案された。〝誠意〟〝信頼〟といった抽象的な言葉ではなく、〝球団数を無理やり減らすことはない〟といった具体的な言葉がきかれるようになってきたのも大きな違いだった。>(同書320頁)
翌23日18時56分、金屏風を背にした古田が合意書7項目を発表した。1項目目は「NPBは、来季(2005年シーズン)に、セ・パ12球団に戻すことを視野に入れ、野球協約31条、32条に基づくNPBの参加資格の取得に関する審査を速やかに進め、適切に対応する」とした。そのほか、加盟料・参加料の撤廃や、加入審査の適正化や透明化などにも明確に書き込んだ。6月の合併報道から103日目の決着だった。
NPBは10月からライブドア、楽天の2社からヒアリングを実施、11月に「東北楽天ゴールデンイーグルス」の新規参入を決めた。また、12月にはソフトバンクの福岡ダイエーホークスの買収を承認。05年シーズンが従来通りセ・パ12球団で行われることが確定した。
103日に及んだ一連の騒動を、福岡に本拠を置いたクラウンライター・ライオンズの西武への身売りなどを球団幹部として経験した坂井保之氏は「プロ野球経営評論家」としてさまざまなメディアで評論している。当時の全体状況について『深層「空白の一日」』(ベースボールマガジン社新書)でこう解説している。
<セ・リーグ各球団は巨人のV9のおすそ分けで1970年代あたりから経営は黒字に転化してきた。一方のパ・リーグは、創設以来ずっと赤字球団のリーグだった。赤字は1球団平均して30億円の規模に達している。当然、球団の身売りによる経営交代といえば、いつもパ・リーグだった>(『深層』190頁)。
伝家の宝刀を抜いたからこそ今がある
近鉄・オリックスの合併と、パ・リーグ内の「もう一つの合併」は、実質的にパ・リーグを見捨て、10球団による1リーグ制を実現し、黒字を生む「巨人戦」の恩恵を受けたいという思いが底流に流れていたとうのが筆者の見方だ。球界の縮小再編成の目論見は、近鉄やオリックスのファンだけではなく、全国のプロ野球ファンの後押しを受けた選手会のストにより粉砕された。
あの騒動から18年が経過した。当時、1試合1億円といわれ、セ5球団の黒字の源泉だった「巨人戦」の地上波テレビ放映権料だが、2000年ごろを境に巨人戦の視聴率が急降下。ついには視聴率の低迷が元で巨人戦の地上波でのテレビ放送が姿を消した。
野茂英雄やイチローといった、「巨人戦」には出てこなかったスター選手が大リーグに渡って野球の魅力を日本のファンに広めたことで、「巨人戦」の中身の薄さが誰の目にも明らかになったことも、視聴率低下の一つの要因ではなかったか。
18年前、1リーグ10球団で「生き残り」を図った球団経営者たちの思惑は、パ・リーグ側は「巨人戦」の放映権料の獲得で経営危機を乗り越えようという発想で、巨人以外のセ・リーグ5球団は「巨人戦」という既得権の確保以外は関心がなかった。いずれも「巨人戦」頼みの発想で、明らかに時代を読み違えていた。プロ野球を「商売の一環」としか考えない球団オーナーたちにプロ野球の行方を託していたら、果たして現在のプロ野球が存在していたかどうか。
選手会は「スト」という伝家の宝刀を抜いたことで日本のプロ野球とファンを守り抜いた。今回取り上げた『勝者も敗者もなく』は、勝者の貴重な証言集である。