2022年12月6日(火)

勝負の分かれ目

2022年8月23日

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 坂原監督は今大会で勝ち上がるたびに主将の山下世虎内野手(3年)からウイニングボールを手渡されていたが、準決勝で勝利した後に「あと1つです」と言われていた日本一のものは受け取ることはできなかった。それでも「ウイニングボールどころか、それよりも彼らからもっと大切なものをもらっていたので、もうそれで十分です」と笑った。

 その後は表情を引き締め、戦うごとに強さを増していった今チームから得た教訓として「やはり高校野球なので、まずはやっぱり諦めないこと。(入部から)2年と3カ月、本当にどこで子どもたちが成長するか分からない。その思いだけは今回の決勝戦に上がったということで彼たちが証明してくれたので、今後の指導にも生かしていきたいと思う」と述べ、自らにも言い聞かせた。

廃部危機の最中での監督就任

 都道府県大会含め全国3549の参加校の中から決勝の舞台にまで上り詰め、初の準優勝をつかんだ。ここに至るまでの平坦ではない道のりと乗り越えるために重ねてきた辛苦を思い起こせば、指揮官の表情に悔いなどあるはずもなかった。

 かつての下関国際は全く無名のチームだった。硬式野球部は1965年に創部され、歴史こそ古いが、弱小の域から延々と抜けられず甲子園出場など夢のまた夢と言われていた。2000年代に入ると同部内で集団万引きの不祥事が発生した影響で監督が退任へ追い込まれ、部員も激減。そのタイミングにおいて〝運命の糸〟で結ばれたのが、監督就任前の坂原氏だった。

 下関国際野球部が廃部危機に瀕していた噂を聞きつけ、偶然にも同校に近隣する東亜大学で教員免許取得に励んでいた坂原氏は同校校長に「お手伝いしましょうか」と手紙を書き、無償でコーチ業務を買って出たことがきっかけとなった。

 2005年から正式に同校野球部へ就任。しかし、それまでは監督不在で同校校長が多忙を極めながら兼務責任者として活動していた野球部は野球道具も満足に揃っておらず、グラウンドに草が生えているような惨憺たる状況だった。

 就任直後の部員数はわずか11人。さらに08年秋の時点でも1、2年生合わせて部員5人しか集まらず、「冬」どころか「氷河期」の時代が続いた。

 常に前向きな坂原監督は就任間もない頃から「甲子園出場が目標」と言い続けていたが、最初は周囲に失笑され続けていたという。当時のことを坂原監督は「練習試合、公式戦含めて1勝するのに3年半かかった。監督を18年やっていて一番しんどかった」と述懐している。

 だが、そんな苦境の中でも坂原監督はめげなかった。部員が練習についていけずに弱音を吐き「能力がないから退部したい」と申し出ると、そのたびに「何とか頑張ろう。3年間やり続けることが大切なんだ」と必死に説得した。時にはギブアップ寸前の部員を練習時間前にわざわざ直接迎えに行き、励ましながら一緒にグラウンドへ向かった。  

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