2013日4月15日に起きたボストン・マラソン爆弾テロ事件。容疑者とされているのは、チェチェン系のタメルラン・ツァルナエフ(26歳)とジョハル・ツァルナエフ(19歳)兄弟である。警察との間で銃撃戦で兄は死亡し、弟は重傷の身で拘束された。
兄弟がチェチェン系であったこともまた、大きな衝撃をもたらした。チェチェン人の多くはイスラームを信仰しており、イスラーム過激派やアルカイダによる組織的テロであるのではないかという議論も沸き起こった【チェチェンの過激派については最終ページコラム参照】。
しかし、結論から言えば、今回の事件はツァルナエフ兄弟による単独犯行だと断定して良さそうだ。
複雑な生い立ちとアイデンティティ・クライシス?
ツァルナエフ兄弟の生い立ちは大変複雑であり、家族は激動の歴史によって人生を翻弄されてきた。アメリカやロシアの各種報道をまとめると次のようになる。
第2次世界大戦中の1944年、当時、ソ連の指導者だったヨシフ・スターリンは、「敵性民族」として、チェチェン人を含む多くの民族に対して大規模かつ残忍な強制移住政策をとったが、それにより、ツァルナエフ兄弟の祖父母はチェチェンを追われ、キルギスタン(現・キルギス)に移住させられ、兄弟の父・アンゾル氏はそこで生まれた。
だが、1980年代後半のペレストロイカや1991年のソ連崩壊を機に、強制移住を強いられた諸民族の帰還の波が起こり、アンゾル氏もコーカサス地域に移住した。そこで父は母のズベイダット氏と結婚、ロシア南部のカルムイキア共和国で兄のタメルラン容疑者が誕生した(兄はロシアの市民権を持っていた)。その後、一家はチェチェンやその隣国のダゲスタン共和国で生活をしていたが、第1次チェチェン紛争(1994-96年)の混乱が及ぶと、一家は再びキルギスに戻ったという。そこで、弟のジョハル容疑者が生まれた(弟はキルギスの市民権を持っていた)。
一家は2001年に母の出身地であるダゲスタン共和国に移住するも、1999年からの第2次チェチェン紛争が再び深刻化し、2002年に家族で難民として渡米することになった(兄は2004年から)。その後、両親はダゲスタンに帰国したが、兄弟はそれぞれ合法的に米国永住権を取得していた。
このように難民として海外に生活拠点を求めるチェチェン人は少なくないが、その多くは、欧州諸国に渡るといわれており、ジェームスタウン・ファウンデーションによれば、米国に渡ったチェチェン難民は200人未満であり、そのほとんどはボストン周辺に住んでいるという(兄弟の叔父は米国・メリーランド州在住)。