2024年11月22日(金)

スポーツ名著から読む現代史

2022年9月28日

 落合が仕えた7人の監督の中で、落合自身が「何としても胴上げしたい」と思ったのがロッテ時代の稲尾和久監督だった。稲尾監督とはよく酒を飲んだ。『勝負の方程式』にはこんな記述がある。

 <彼はしょっちゅう、私を酒場に引き出した。オフであろうがシーズン中であろうが関係なかった。ときどき、コーチの佐藤道郎さんや千田啓介さんが加わった。コーチの人たちがいるときでも、いないときでも、酒の肴は野球の話だけである。聞きようによっては、監督批判ともとられかねないきわどい話も交わしている。「なんで、あそこで、こんなサイン出したんですか」とか「あそこは、ピッチャーを代えるべきだった」などと、稲尾さんの采配への疑問まで、正直にぶつけている。彼はどんな話にもきちんと耳を傾ける。そして、最後には決まったようにこういう。「おまえ、監督じゃないんだから、だまっておけ。本人は反省しているんだ」と。>(『勝負の方程式』129~130頁)

 現役時代から「目指す野球」について、明確なビジョンを持っていた。『勝負の方程式』でこう書いている。

 <私は、ロッテ時代も中日時代も、点を取らなきゃ勝てないといったチーム事情の中で、野球を続けてきた。私がバッターだからといった理由とは関係なしに、打ち勝つ野球、それなりにおもしろい。チーム全体が火の玉になるような雰囲気は、ひとりひとりの選手を燃え立たせてくれる。バッティングには、なんといっても華があるから、ファンも喜んでくれる。(略)しかし、勝負ごとは、勝たなければ意味がないという原則に当てはめると、打ち勝つ野球には限界があると思う。つまり、長いペナントレースを戦い抜くことができない、優勝は難しいということである。仮に、私が監督になったら、点をやらない野球を目指す。守りで攻撃するチーム作りに取り組むだろう。>(同書153~154頁)

エリートと非エリートの道を行った監督像

 野球エリートとは正反対の道を歩んでプロに入った落合。だが、プロでの評価は自分のバットで最高峰まで高めた。だから、落合はこんなことを書いても許される。落合は監督には極論すれば二つのパターンがあると指摘する。

 <日本のプロ野球では、いわゆる「野球エリート」と呼ばれる人が監督になるケースが多い。長嶋茂雄さんや王貞治さんに代表されるように、高校・大学時代から豊かな将来性を嘱望され、注目された中でプロ入りすると、期待に違わぬ活躍を見せてスターになる。現役を退く際にも「近い将来には監督に」という期待を寄せられ、ほどなく監督に就任するという野球人生だ。このタイプの監督は、ドラフト1位など高い評価で獲得した選手をしっかりとレギュラーに仕上げていく。(略)ただ、その一方ではドラフト下位で入団してくるような無名の選手を育てるのが得意ではない。無理もない。自分自身が潜在能力に恵まれ、順風満帆な野球人生を過ごしてきたゆえ、「できない人の気持ち」が理解できないのだ。「プロに入ってきたのだから、そんなことぐらいはできるだろう」。そんな視点だと、できない選手が「能力がない」「努力していない」と見えてしまう。>

 <そんなスター監督とは正反対に、選手時代には高い実績をあげられなかったものの、若くして指導者の道に入り、コツコツと経験を積み重ねて監督に就任する人もいる。コーチや二軍監督を経験していれば、先に書いた「できない人の気持ち」は手に取るように理解できるから、若い選手を厳しさの中から育てていく手腕にたけている。(略)ところが、このタイプの監督は主力選手、すなわち「できる人の思い」をなかなか理解できない。人によっては、スター選手に嫉妬心を抱いて無用な衝突を起こしたりする。そして、ベテランから若手に切り替えるタイミングを間違えることもある。>(『采配』202~203頁)


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