秋田県の八郎潟に近い若美町(現男鹿市)で生まれた落合は、中学時代は県下に知られた剛腕・強打の選手だった。その落合少年が、ラグビーでは全国に知られた名門だが、野球では秋田高や秋田商の陰に隠れ、甲子園は春夏1度だけという秋田工に進んだのは<あまり選手をいじらないと聞いたし、どっちみち就職するつもりだったから>(『オレ流』57頁)
1年の春の大会はエースだったが、上級生の風当たりは強く、「毎日、ぶん殴られた」。野球部の封建的な体質がいやになり、野球部の入退部を繰り返したエピソードは有名だ。
出席日数不足で進級も危なかった落合だが、面倒見のいい先生の勧めで3年の秋に東洋大学のセレクションを受け、一発合格。だが、高校時代、まともに練習をしていなかった落合が、大学の練習について行けるはずもなく、野球部の寮を3カ月で飛び出し、そのまま大学も辞め、秋田に戻った。
長兄が支配人をしている若美町のボウリング場で、ピンを雑巾で磨くアルバイトをしながらボウリングと草野球に明け暮れた。ボウリングのベストスコアは286。秋田での浪人生活は2年に及んだが、面倒見の良い秋田工時代の野球部長の世話で、東芝府中野球部のセレクションを受けることになり、再び野球とのつながりが復活した。
同じ東芝でありながら、川崎に本社がある野球部は全国トップクラス。だが、落合が加入した東芝府中は、同書の表現では「草野球に毛が生えたクラブチームみたいなもの」だったという。
落合の社会人野球時代は5年間続いた。その間、チームは着実に強くなり、入社3年目の76年には初の都市対抗出場を果たし、5年目の78年には全日本メンバーに選ばれ、プロへの道が開いた。
巨人が「江川事件」によりボイコットした1978年のドラフトでロッテから3位指名を受け入団。だが、当時の首脳陣の評価はボロカスだった。前年限りで監督を退いた400勝投手金田正一は「こいつはプロでは通用せん」。後任監督の山内一弘は「おまえのフォームじゃ、インコースは打てないから、プロでは無理だなあ」(『オレ流』75頁)。
入団1、2年は1軍と2軍を行ったり来たり。転機となったのは2年目の後期シーズン。当時、パ・リーグは前後期の2期制を採用していた。後期開幕6試合目の近鉄戦で、近鉄の大エース、鈴木啓示から代打本塁打を放った。これで先発出場の機会をつかみ、3年目に首位打者を獲得し、大打者への道を駆け上がっていく。
現役時代から持っていた野球へのビジョン
『嫌われた監督』によると、落合は中日監督時代、選手との距離をとった。『采配』では、キャンプ中の食事も首脳陣と選手は別々の会場に分けた理由についても書いている。選手との個人的な付き合いは避け、一緒に酒を酌み交わすなどもってのほか。だが、現役時代はどうだったか。