外交官が見た「エネルギー」、民主化を期待
上記のような天安門事件後の中国認識は、あくまで霞が関の外務官僚が描いたものだ。しかし現場の在北京日本大使館の若手外交官はそう考えなかった。大規模デモを展開する学生や市民のエネルギーを連日目の当たりにして、日本政府としても学生らの民主化運動に無関心であるべきではないと認識した。
民主化の叫びが最高潮に達した89年5月に話を戻そう。
5月15日、ソ連でペレストロイカ(政治体制改革)とグラスノスチ(情報公開)を進めるゴルバチョフ共産党書記長が歴史的な中ソ関係正常化実現のため北京入りした。中国共産党の変革を求める広場の学生たちは興奮し、17日についに、天安門広場やその周辺は人で埋め尽くされ、百万人デモに発展した。
日本大使館の若手外交官は、たまたま訪中した日本の要人に同行し、ゴルバチョフもいた人民大会堂を訪れた。人民大会堂を出た瞬間、目の前の天安門広場を埋めた学生の期待の眼、刺すような視線を感じた。「ゴルバチョフ訪中で、情勢が好転していくんじゃないかという期待がみなぎっている輝いた視線だった」と回顧した。
日本大使館は「百万人デモ」を観察し、東京に公電を送った。
「今回の動きを通じ、党指導部の権威が大きくゆらいだことは疑いなく、無数の学生・市民が何らの規制を受けず、天安門広場を占拠し、『民主と自由』をさけぶことができることを実感したことの意義は大きく、党・政府指導部としては、今後、長期にわたり、こうした解き放たれつつあるエネルギーがこの国の体制の自由化、民主化、政治体制改革へ向けて強い圧力となって働くのをコントロールするのに腐心していくことになろう」(中島駐中大使発外相宛公電「中国内政(5・17デモ:当館観測)」89年5月18日)
民主化運動は「中国内政問題」、共産党を最優先
しかし東京の外務省では、あくまで日中関係をつくるパートナーは共産党・政府であり、その関係を最優先する対中方針が一貫していた。日本大使館は、「百万人デモ」5日後の5月22日、外務省中国課から「中国の学生デモ」と題した文書を受け取った。同文書には「日中関係への影響」としてこう記されていた。
「本邦プレスの報道振り(学生に同情的)もあり、李鵬現指導部の今後の対応振りいかんでは、日中友好協力関係をプレイ・アップ〔大きく扱う〕したり、円借款等の経済協力を積極的に推進することに対する批判も出て来ることがあり得る。ただし、我が方としては、本件はあくまで中国の内政問題との立場から、はねかえりはないことを期待との対応とする」
中国課では、学生に同情した趙紫陽共産党総書記の失脚が確定的となり、李鵬総理が中心となった中国政府との間で日中友好を継続、強化していく方針だった。中国学生らの民主化運動は「あくまで中国の内政問題」であり、静観することで、日本への「はね返り」が来ないことを期待するというのが基本的スタンスであった。これが摩擦を抱えながら大崩れしなかった1980年代の日中関係の現実であった。
対中政府協力で日本は「嫌悪」対象になる
人民解放軍の戦車が、天安門広場の武力制圧作戦に向け、本格的に前進を始めたのは6月3日夜。その21時間前の3日午前0時すぎ、北京の日本大使館から東京の外務省に「当館分析ペーパーの送付」と題した文書がフックス送信された。「ペーパー」の中身は、大使館政治部が5月31日に作成した「学生運動と趙紫陽の失脚」という「秘」指定の中国分析報告だった。
全9ページの文書のうち、筆者が注目したのは、中国で起こっている民主化のうねりという激動に対して日本政府がどう向き合うか提言している箇所である。
「わが国としては、あるいは国民の一部には反感さえ存在することが明らかになった政府を相手とすることになるかもしれないという意味で、戦後の日中関係上ほとんど経験したことのない局面を迎えたということができよう。極論すれば、現〔中国〕政府への支持・協力表明が一部〔中国〕国民からは反感をもって迎えられるという要素も十分考慮に入れつつ進める必要が出てきつつあると言えよう。少なくとも、今回の百万人デモで現れてきた民主化の流れは、今後の中国の将来への流れと見ることもできるわけであり、そうした人々の考え方や受け止め方にはわが国としても十分注意を払っていくべきであろう」