第20回中国共産党全国代表大会(10月16日~23日。以下、「第20回共産党大会」)は最終日に垣間見られた胡錦濤前国家主席の〝謎深き振る舞い〟も相俟って、内外から一層の注目を集めている。それと言うのも、3期目に入った習近平政権の方向が、わけてもウクライナ戦争で隘路に入り込んでしまった国際社会に大きな影響を与える可能性を秘めていると考えられるからだろう。
だが、習政権3期目が向かおうとしている方向を見定めるためのカギは容易に見つかりそうになく、種々雑多な情報が千変万化しながら交錯し、喧々囂々(けんけんごうごう)の議論が続出するばかり。かくて暗中模索で五里霧中の状態が続くことになる。
そこで視点を〝劇的〟に転換し、会場となった人民大会堂を大舞台に、第20回共産党大会を「過てる『習降李昇』」の段から始まり、「胡錦濤、俄に退席す」、「7人衆、勢揃い」、「勝利の大会」で幕となる政治的な大軸戯(おおしばい)に見立て、周辺事情も加味しながら、一連の動きを改めて考えてみることにした。
変わった共産党の「長老」たち
第20回共産党大会が近づくに従って、「習降李昇(習近平に代わって李克強のトップ就任)」やら、長老連による習近平失脚への動きなどが内外メディアを賑わせた。だが第20回共産党大会の結果が物語っているように、それら事前に伝えられた報道は否定されることになる。
なぜ、このような期待先行型の観測記事が乱れ飛んだのか。それというのも、共産党が拠って立つ政治文化に対する誤解が原因しているからではないか。
共産党政権は絶対聖である「天」を地上に体現する存在としての天子(=皇帝)を根本原理とする伝統的政治文化と、現実の中国における「人民」の生存の一切を差配する党国体制と呼ばれる共産党式政治文化が合体したうえに成り立った権力と見なすべきだろう。であればこそ周恩来が天子たる毛沢東にとっての執事であり続けたと同じように、結果として李克強も習近平政権における筆頭執事に近い存在でしかありえなかった。
長老と呼ばれる一群の高齢者に関しても、やはり何かしらの思い違いがあるように思う。長征に参加し、革命闘争を戦い、権力闘争の修羅場を潜り抜けてきただけに、かつて長老と呼ばれた元革命家には一種の伝説性が備わっていた。カリスマ性を漂わせる「生きる伝説」として社会から認められていたからこそ、次の世代に対する影響力を発揮し得たに違いない。
これに対し現在の長老連は最高幹部を経験したものの、じつは党組織のテクノクラートに過ぎなかった。であればこそ彼らに、かつての長老の佇まいが醸し出していた〝言外の影響力〟を求めることはできそうにない。