今から100年前、中国共産党が結党された1年後の1922(大正11)年、1人の日本人が70日ほどを掛けて中国各地を歩いた。帰国後に上梓した『偶像破壊期の支那』(鉄道時報局、1922年)に、次のように綴っている。
だが6回目に当たる今回の旅で「支那は日本に取りては『見知らぬ国』」である。「支那は日本にあらず。全く異なりたる環境と人生観をもつて成る国」であることを知るに及んで、改めて「世界を見るの眼をもつて支那を眺め」直したら、「驚心駭魄」することばかり。
彼の名前は鶴見祐輔(1885~1973年)。台湾経営に辣腕を発揮し、初代総裁として満鉄を方向付けたことで知られる後藤新平の娘婿に当たる。
「支那は日本に取りては『見知らぬ国』」「全く異なりたる環境と人生観をもつて成る国」であるからには「日本を見るの眼をもつて」ではなく、やはり「世界を見るの眼をもつて支那を眺め」るべきだ――鶴見の視点は、1世紀が過ぎた現在でも色褪せるものではない。
中国歴代政権が貫いてきた「中国の位置」
建国以来、歴代政権が唱えた国家戦略――政権の姿勢を示すキャッチコピーとも考えられる――を振り返ってみる。
毛沢東(1949~76年)は「自力更生」「為人民服務」を掲げ、国境を閉じ人々の移動を禁じ、職業と居住を厳しく制限した。貧しくとも構わないから一律平等に〝毛沢東式社会主義聖人君子〟を目指せと、全国民に高い政治意識を求め鍛え上げようとした。
華国鋒(76~78年)は「二つの凡て」を示し、毛沢東の決断と発言は断固守るべしと説いた。つまり毛沢東路線の踏襲である。
鄧小平(78~97年)は「先富論」を打ち出し、市場経済を積極的に導入した。誰でもいいから、金持ちになれるヤツから金持ちになれ。貧富の格差が生じて当然と、自由闊達な経済活動を奨励した。だが、共産党批判禁止の厳しいタガを嵌めることを忘れなかった。一方、対外関係では「韜光養晦(とうこうようかい)」を口にし、総合国力が十分に備わるまでは外交的自己主張・軍事的行動を努めて控えるよう命じている。
江沢民(89~2002年)は「三つの代表」を唱え、共産党が中国の「先進的社会主義生産力発展の要求」「先進的文化の前進の方向」「最も広範な人民の根本的利益」を体現するとし、それまでの労働者・農民・兵士の利益を代表するとの党是を改め、共産党が少数民族から資本家までを含む全中国人の利益を代表するものと新たな定義づけをした。
胡錦濤(02~12年)は「和諧(わかい)社会」を説き、民主・法治・公平・正義が貫かれる調和の取れた社会を目指そうとした。
習近平(12年~)は「中華民族の偉大なる復興」「中国の夢」を勇躍として掲げ、豊かな経済力を背景に国内では統制を強化する一方、国外に向かっては軍事力をテコに影響力の拡大に邁進するばかり。
このように、「全く異なりたる環境と人生観をもつて成る国」の1949年以来の歩みを振り返って見ると、各政権の国家戦略は共産党政権としての正統性を表象化する〝物語〟として一貫して捉えることができる。それぞれが違っているようだが、とどのつまりは富国強兵に収斂し、その先にアヘン戦争以来の屈辱の近代史に対する復仇の思いが浮かび上がってくる。もちろん、このような壮大な歴史的使命を領導するのは共産党でなければならないことになる。