日本人的感覚で憶測すべからず
日本におけるチャイナウォッチャーの第一世代の代表と言えば、やはり『万朝報』記者時代の内藤湖南(1866~1934年)を挙げておきたい。彼は清国(中国)旅行での体験を踏まえ『支那漫遊 燕山楚水』(博文館、明治33=1900年)を著し、揺れ動く当時の中国情勢を日本人的感覚で捉えることの危険性を指摘している。
内藤は同時代の「支那論者」に向かって、「近日は北京朝廷の変報、頗る世人の好奇心を惹き動かして、邦人の得意なる揣摩憶測を逞しうし、東邦大変の空想を胸中に描く志士、甚だ乏しからざるに似たり」と説いた。
ここに記された「変報(おそらく「変法」の誤植)」が指す一連の清朝近代化運動(1895~98年)の経緯については敢えて詳細を省くが、要するに保守派と改革派とが戦った北京の政変は「頗る世人の好奇心を惹き動か」す。そこで「邦人の得意なる揣摩憶測」を働かせ、「東邦大変の空想を胸中に描」きがち。だが北京の政治中枢の異変ではあるが、だからと言って「大なる影響を全国」に及ばすことはない。これが内藤の主張である。
また北京での政変に呼応するかのように、上海からは「地方愛国者が檄を飛ばし」、清朝中枢の動きを盛んに牽制しているように報じられているが、上海の「新聞業者の相驚懼せるより起れる風説に過ぎ」ない。だから上海の新聞業者の撒き散らす「風説」――さながら「習降李昇」の類だろう――に一喜一憂すべきではない、とも諭した。
どうやら内藤は、中国政治は独自の政治文化によって動いているものであるにもかかわらず、日本人的感覚で「揣摩憶測を逞しう」するから、中国における現実との間にズレが生じてしまう。だから希望的観測のままに期待値を込めて即断することは危険であり、長期的視点から日々冷静に対応すべきだ、と説いたことになる。
第二世代のチャイナウォッチャーの代表に挙げておきたい橘樸(1881~1945年)は、 1924(大正13)年に発表した「中国を識るの途」(『中国研究 橘樸著作集第一巻』勁草書房、昭和41=1966年)で、「所謂支那通の予言は〔中略〕必ず向ふから外れるものであると云ふ誠に不結構な折紙を附けられて居る」と苦笑する。なぜ「必ず向ふから外れるもの」なのか。それは支那通の持つ「断片的」で「非科学的」な知識に基づく「予言と云ふ事である」からだ、と断言した。
内藤にしても橘にしても、先人の指摘は遙か後世の21世紀20年代の現在においても決して色褪せるものではないだろう。
胡錦濤は習近平に抗議を示したのか?
第20回共産党大会最終日に議長団席でみせた胡錦濤の振る舞いは、たしかに尋常とは言い難い。そこで中国官製メディアによる「体調不良」との報道に大きな疑問を呈する一方で、日本を含む海外メディアの大方は「習近平独裁に対する強い抗議の意思表示」との見方で一致する。だが、はたしてそうだろうか。
ここで昨(2021)年7月1日の天安門楼上を思い起こしてもらいたい。
共産党建党百周年式典に臨んで最高首脳陣が並んでいたが、その中央に立ち、自らの右に国務院総理の李克強を、左に前任者の胡錦濤を従えた習国家主席だけが人民服であった。この光景からは、共産党政権No.2である李克強であろうが前国家主席の胡錦濤であろうが、習国家主席にとっては臣下に過ぎないという構図が浮かび上がってくる。しかも久々に公の場に姿を現した胡錦濤は主席在任時とは違い、一見して精力の衰えを漂わせる乱れた白髪だった。
江沢民、朱鎔基、胡濤錦、温家宝など過去の権力者を見るまでもなく、一般に中国の指導者の頭髪は年齢不相応に不自然なまでに豊かで黒々としている。誰もが精力の旺盛な姿を印象付け、強い権力者であることを視覚化・表象化させようと考えるらしい。