2024年6月25日(火)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年2月26日

 17年後の永禄7年(1564年)、信秀の子・信長は自分に寝返って来た美濃・加治田城の佐藤紀伊守という人物に黄金50枚を贈っているが、これは「美濃斎藤氏の攻撃を防ぐ当座の兵糧代にせよ」という名目だった。敵中に孤立していて有事の際にもすぐ救援に行けない場合はそうやって籠城に備えさせるのが常識だったのだ。黄金50枚といえば換算で1000貫文、ざっくり1億円。

 と言うわけで、家康の尾張送りと銭500貫文とは話が別で、戸田氏はただ単に軍資金を受け取っただけというのが真相に近いかも知れない。当時の戸田氏の身代は1万石(『大永慶長年間略譜』で、実収は年間1億8000万円程度。そこに5000万円をポンと送り届ける端倪(たんげい)すべからざる資金力を織田氏は、尾張一国をまるまる支配した信長には及ばないものの、既に持っていたのだ。

 その源泉は、津島と熱田の二大商業流津都市。戸田氏の田原もこのふたつと同じ様に田原湊で(三河湾から)伊勢湾の海上交易に参加し、特に津島湊同様鋳鉄業でも栄えていた。信秀としては対今川の前線である以上にこの都市としての機能が魅力で、戸田氏に大枚を与えたのだ。

松平氏は家康のために歯を食いしばったのか

 ところがどっこい、そんな田原のアドバンテージは、今川氏もとっくに把握していた。

 まず義元は岡崎東南の医王山に砦を築く。三木の信孝とともに岡崎城を南の二方向から攻めようという構えだ。

 これには広忠もたまらず、今度はまた今川氏に降伏する。今川義元にとって、広忠は長年支援して来た憎からぬ存在。膝を折って謝って来られればそれ以上追い詰めるのも忍びなかったのだろう。すぐに赦免を検討し始める。そして実際、広忠はまた今川傘下に戻った。

 そうなると収まらないのは三木松平信孝。「今さら広忠を受け入れるとは」と戦いを続け、結局翌年の安城合戦で討ち死にしてしまうのである。

 まぁそんな後の話は置いといて、広忠がふたたび今川氏に従属したのは9月2日以前のことと考えられ、この時点で今川義元の目標は完全に戸田氏一本に絞られた。9月5日、田原城に攻め寄せた今川軍は当主の戸田宗光以下を破って城を陥れ、宗光は戦死したという。織田信秀からの5000万円は、結果としては無駄金になった訳だ。

岡崎市大樹寺の松平広忠(徳川家康父)墓

 天文18年(1549年)、父・広忠没。天寿を全うしたのでも病死・事故死・戦死でもなく、家臣に暗殺されるという非業の最期だった。今川と織田の間で揺れ動く家臣たちの思惑が、最悪の結果を生んだ形である。父を喪った家康は、まさに哀れな子ウサギと形容するしかない。

 その後、家康は義元の軍師・太原雪斎が織田方の拠点となっていた安祥城を攻め落とし、守将の織田信広(信長の庶兄)を捕虜としたことによって、信広との人質交換で駿府へ移った。岡崎城には今川の城代が入る。

 『三河物語』などは岡崎松平氏の領地はすべて今川氏が支配し年貢も独占、松平家臣たちは帰農して貧苦にあえぎながら対織田方の戦いの先鋒となり、人質に取られている家康の為に歯を食いしばって戦った、という哀史となっている。大河ドラマの序盤でも田の泥に這いつくばって働く岡崎衆が描かれていた。

 でも、実際のところはどうなのだろう? 少なくとも大浜郷は松平氏が直接支配し知行していたらしい。大浜の湊は「富貴の人多き湊」と『信長公記』に記されているように、材木の流通で栄えた土地で、その収入は大きい。天文16年(1547年)、信長が初陣に際してこの大浜まで出張って焼き討ちをしたというのは、いかに大浜の経済力が岡崎松平氏の大きな柱になっていたかという証左になるし、その地を残して貰えたというのは、岡崎松平氏にとって幸いだった。


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