老臣・鳥居忠吉の蓄銭
駿府で元服し、今川一族の関口親永の娘・瀬名(後の築山殿)を正室に迎えた家康は、この頃に一度、先祖の墓参りのため岡崎に里帰りしたという。老臣の鳥居忠吉が家康の手を引いて自分の屋敷を案内し、蔵を開いて中を見せたという逸話がある。
「こ、これは……!米と銭でいっぱいではないか」
驚く家康に、忠吉は「ゲフゲフ。これは御留守の岡崎で税務管理をしていたそれがしが今川の城代の目を盗んでひそかに蓄えていたものですじゃ。若殿の有事の際にお使い下されぃ、フガフガ」と涙を流しながら説明したという。
忠吉がどれほどの米銭を貯め込んでいたかは残念ながら分からないが、銭は10貫文ごとに縛って積んであった。ちょうど100万円の札束と同じ価値単位でまとめられていたというのが面白い(通常は100分の1単位で、「緡<さし>」と呼ばれた)。
それが蔵の中にいっぱい積まれていたのだから、軽く1億円を超える額だったのではないか。それが史実なら、忠吉は今川氏の目の届かない隠し田を無数に造らせ、大浜の港湾税・流通税をちょろまかしていたということになるだろう。
永禄元年(1558年)2月、義元に命じられ今川氏に背いた三河寺部城・広瀬城攻めで初陣した家康は、上々の戦果をあげて駿府に戻り、義元から恩賞を与えられる。それが山中300貫文だ(『松平記』)。
山中は「清康公(家康の祖父)が安城松平氏から独立した土地」だとして岡崎松平家の本貫の地とされていたもので、2000石の生産高があった。貫高に直すと1000貫文だから、返って来たのはその3割に過ぎない。やっぱり今川氏はケチだったのかな。
300貫文の土地の実収は1200万円程度。これに大浜、さらにプラスαが有ったと考えても、この時点での家康の年収は1億円に満たなかった筈。それに忠吉による隠し田の分を加えても、それほど多くは無い元手から2年後の桶狭間の戦い以降、家康はどうやって三河を統一していくのか、というのが次回のメインテーマとなる予定なので、乞うご期待。