2024年6月25日(火)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年2月26日

 信秀の三河侵攻が本格化する中、今川義元の救援を要請しようと家康の父・松平広忠がわが子を忠誠の証しとして駿府へ人質に出そうとしたところ、後妻の実家・田原城(東三河の渥美半島の中央部)戸田宗光が裏切って一行を拉致。あろうことか家康を尾張へ進上してしまった(『岡崎古記』他)。岡崎松平家、地獄状態。

 そもそもこの年というのは岡崎松平氏にとっていろいろハードな時期で、まずは三木(みつぎ、岡崎城の南隣り)を本拠とする三木松平氏の信孝を警戒して追放したところ、その信孝が今川氏と結んでしまった。叔父にあたる信孝と松平との主権争いをしていた広忠は、思いも掛けず頼りの今川氏と敵対するハメに陥る。

幼き家康のお値段ハウマッチ?

 悪いことは重なるもの。今川氏と手切れして後ろ盾を失った広忠を見て、尾張の織田信秀は好機到来とばかり三河へ軍を進めた。

「駿河衆(今川軍)敗軍の様に候て、弾正忠(信秀)まずもって一国を管領(支配)」「岡崎は弾(弾正忠信秀)へ降参の分にて、からがらの命にて候。弾は三州平均(平定)」(「本成寺文書」同年9月22日付け日覚書状)

「去年彼の国(三河)に向け軍(いくさ)を起こされ」「岡崎の城、その国より相押さえ候」(天文17年3月11日信秀宛て北条氏康書状)

 と、迎撃した今川軍は敗退し、三河一国は今川方も反今川方もまるっと信秀の足元にひれふす結果となる。広忠もその例に漏れず、信秀に降伏して辛くも生き延びた。

 幼い家康が駿府へ赴いたという一件は、おそらくこの混乱の流れの中で広忠が何とか今川氏傘下に復帰して保護を求めるべく運動し、わが子を人質として提出しようとしたものだろう。その行列が東に進み戸田氏の領地に入ったところで広忠が信秀に降伏してしまったために、一転して尾張へ送られることになった、というのが自然な流れだろうか。

 従来は戸田氏が寝返って織田方に通じ、家康一行を拉致して尾張へ送ったというのが定説だったが、これだと随分印象が変わる。

 とすると、定説が語られる中で出て来るキーワード。

 「戸田氏は家康を尾張へ転送した褒美として銭100貫文をもらった」と記すのは『松平記』『当代記』で、他に『官本三河記』では500貫文、『三河物語』は1000貫文と、編纂史料によって金額はまちまち。現代の価値で1000万円~1億円と幅がある。ホントはいったいいくらなんだい?

 と、グダグダと書き殴ったが、実はこの件については家康本人の証言とされるものがある。

「銭500貫で売られた」

 これは家康側近が編んだという『駿府記』の中で金地院崇伝(家康ブレーン)と因果居士(安土宗論のレフェリーを務めた高僧)が家康から聞いた話とされており、一番信頼性が高そうだ。ちょうど真ん中、この500貫文(5000万円)を一応の正解として良いのではないか。

 いずれにしても、徳川関係の史料は声を揃えて「戸田が家康公を売った、ひどい話だ」というニュアンスでこれを記録しているのだが、本当にそうなのだろうか。

 ちょっと性質は違うけれども、この時代、捕虜を売買する相場は10貫文までだった(『甲陽軍鑑』)。確かに家康は岡崎松平家の跡取り息子だし、今川と織田に挟まれた状況下、政治的なキーマンとして重要だが、それでも通常相場の10~100倍とは、信秀も太っ腹に過ぎるのではないか。岡崎松平の家中も、「家康様にはそれだけの価値が有ったのだ」と威張っても良い気がする。違和感無いですか?


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