満州事変(1931年<昭和6年>)は不可思議な戦争であった。一方の当事者である関東軍は、満州権益(関東州租借地・南満州鉄道)を保護するために設置された警備部隊で、事変当時の兵力は1万人強に過ぎない。警備部隊であるから一部の重火力や輜重(補給・輸送)部隊を欠き、本格的野戦に対応することをそもそも想定されてはいなかった。
対する中国軍ははるかに強力だった。事変当時、満州軍閥の張学良は蔣介石の中国国民政府の旗下に参じていた。その張学良軍は数十万の兵力を誇り、これに国民党軍(国民革命軍)を合わせれば(合わせなくてもだが)、貧弱な関東軍が対抗できるような相手ではない。
しかも、満州事変は関東軍の一部参謀(板垣征四郎・石原莞爾など)が独断で起こした謀略であり、内閣はおろか軍中央の承認を得たものでもなかった。日本国内は平和主義とアンチ・ミリタリズムの「大正デモクラシー」の全盛期であり、当然ながら事前に軍事行動に対する国民的な支持があったわけでもない。常識的に考えれば、孤立した関東軍は雲霞のごとき中国軍に取り囲まれ、たちまち殲滅されて然るべきだろう。
さらに、満州事変は戦争による紛争解決を禁止した国際連盟規約と不戦条約に明確に違反し、極東における現状維持と平和発展を約した「ワシントン体制」の精神を踏みにじるものであった。すなわち、満州事変は中国に対する挑戦であるのにとどまらず、第一次世界大戦後の国際秩序(平和協調と戦争違法化体制)に対する挑戦でもあった。
帝国主義的観点から見ても、南満州が日本の勢力圏であったのに対し、北満州はソ連の勢力圏であり、軍事行動がソ連を刺激することは明白であった。その意味で、わずか1万の関東軍は「全世界」を敵に回して戦争を開始したのである。
しかし実際には、関東軍は破竹の勢いで進撃し、半年で北満州を含む満州全土を制圧すると、1932年3月に清朝最後の皇帝溥儀を執政(のち皇帝)とする満州国を建国してしまう。なぜこのような鮮烈な軍事的成功が可能だったのだろうか。
濃淡はあれども存在した「コンセンサス」
まず国内的要因から見ていこう。前述のように、満州事変は関東軍の一部幕僚が強行した謀略であり、陸軍中央の承認があった計画ではない。しかしここでいう「承認」とは「1931年9月18日に柳条湖付近の鉄道を爆破し、これを口実に全満州を占領する」という具体的計画への同意を示すものである。
満蒙問題解決を主唱する陸軍有志の会合「一夕会」会員が軍中央の要職を掌握していたこともあり(連載第4回『日本陸軍を民主化し、暴走させた「大正デモクラシー」』参照)、もっと漠然と「満蒙問題は軍事力を使ってでも解決しなければならない」という広い意味であれば、陸軍大臣・参謀総長以下省部のコンセンサスはおおむね形成されていた。
このコンセンサスの濃淡は幅広い。板垣や石原は即時決行の最強硬派である。一夕会の首領格であった永田鉄山(陸軍省軍事課長)はやや慎重派で、武力行使にはもうしばらく準備が必要という立場であった。南次郎陸相や金谷範三参謀総長は最軟派であり「いずれは武力解決の必要もあるだろう」という一般論での賛成に過ぎなかった。それは多分に国防充実を正当化する政治的口実の意味合いが強かった。しかし一応の「緩いコンセンサス」があったことは事実であった。