日本政府や陸軍が最も恐れていたのは北満州を勢力圏とするソ連の介入であった。しかし意外にもソ連は日本に対して融和的で、中立姿勢を堅持するとともに、関東軍の部隊移動に便宜を図りさえした。ソ連国内は経済的な混乱期であり、日本と戦争をする余力はなかったのである。
もちろん日本の行動を容認した国は存在しなかったし、多くの国が厳しい非難の声を上げた。しかしそれだけだった。武力制裁はおろか経済制裁さえ行われなかった。
列強の融和姿勢は有名な「リットン報告書」にも表れている。満州事変の事実認定と解決方法を提案した「リットン報告書」は、日本の武力行使と満州国建国の正当性を否定した。しかし同時に、その提案する解決策は、満州に非武装中立の自治政権を樹立して日本の既得権益を承認するなど、満州における日本の優越権を容認した内容であった。
しかし全満州の軍事制圧と独立国家建国が既成事実となった今、この極めて融和的な勧告を承諾することすら国内政治的に不可能であった。1933年3月27日、日本政府は国際連盟脱退を正式に通告した。
満州事変後に訪れた「平和」と「繁栄」
国際連盟からの脱退は、しかし日本の国際的孤立を意味したわけではなかった。まず日本は理事会と総会を除く連盟諸機関への参加を継続した。国際機関から日本を完全排除することは現実的ではなかったし、列強はそれを望ましいとも考えなかった。将来的な連盟への復帰も期待された。
日本に対して厳しい態度で臨んだ米国でも、世論は極東問題に対する関心を急速に失った。米国経済はどん底であり、中国の苦境に構っている余裕はなかった。
中国との関係も小康を迎える。1933年5月31日、日中は塘沽停戦協定を結び、満州事変に一応の終止符が打たれた。蔣介石が満州国の存在を公式に認めることはなかったが、しかし中国に独力奪還の力がなく、欧米列強の支援も得られない以上、蔣介石がいかに強がっても事実上の黙認状態にならざるをえない。満州国の存在は既成事実化される。1934年にはバチカンとエルサルバドルが満州国を承認している。見せかけの平和は現実の不正義を固定化するのである。
国内的にも満州事変は暗い時代の始まりとはならなかった。昭和恐慌、農村荒廃、政治腐敗といった諸問題に沈滞していた世相は、日本軍の連戦連勝と新国家の建国に沸き立った。
実際、国内経済は好転していく。斎藤実内閣の大蔵大臣・高橋是清は金輸出再禁止を実施すると、積極的財政支出によって経済回復を成し遂げる。こうして日本は諸列強に先駆けて恐慌から脱出することに成功する。農村の復興は少し遅れるが、それも徐々に改善に向かう。
人々は消費社会を謳歌した。都市では若者が最新のファッションで闊歩し、ハリウッド映画も公開されていた。1936年、国際オリンピック委員会は東京でオリンピック大会(1940年)を開催することを決定した。
政治的には、犬養毅内閣(政友会)が海軍青年将校による「五・一五事件」で瓦解した後、斎藤実内閣以降は非政党内閣が続く。しかしこのことが直ちに政党政治の消滅と政治的抑圧の時代を意味したわけではない。満州事変勃発から日中戦争開戦までの間に3回の衆議院議員総選挙が行われているが(1932、36、37年)、いずれも既成政党(政友会・民政党)が圧倒的多数を獲得している。非政党内閣も軍部も既成政党が支配する議会を無視することはできなかった。政党内閣復活は充分な現実性を持っていた。